2010年12月14日火曜日

そよいでる棕櫚竹の一本を伐る

Santouka081130059

―表象の森― <見る>ことを超え出て
辻邦生ノート「薔薇の沈黙-リルケ論の試み」より –参-

<見る>とは、対象の外-前-に立って、対象をそこに現前させることだ。<見る>行為は、その意味では、対象-世界-を現象として浮かび上がらせるが、対象から離れることはできず、むしろ対象に依存-従属-している。いかに視覚が働こうと、事物がなければ何も見ることはできない。同時に、最後まで自己性を超えられないゆえに<見る人>は<対象>-世界-の前に立つのであり、対象-世界-と外面的な関係を持つに過ぎない。世界とのいかなる内的関係も失って、世界自体の合理性の上に築かれた<近代>社会では、人間は<見る人>であることを強いられる。誰もが<見る>以上のことはできない。だが、それは人間が根源的に排除・疎外されている証拠でしかない。

「マルテの手記」以来、リルケが<愛する女><内から外へ溢れる薔薇><天使>の映像で<純粋意欲>―欲求対象を決して所有しない、自己性を克服した純粋活動としての意欲―を追求したのも、ただひたすら近代人を孤独と窮乏の中に投げこむ<近代>を克服するには、それによるほかに方法はないと、確信できたからだった。というより、リルケがパリの孤独と<誰のでもない死>から自らを救い出そうとして苦悩するあいだに、救済の道としてみえてきたのが、この休止することのない<純粋意欲>だったというべきだろう。それはニーチェの「力への意志」とほとんど同質の「生への意欲」といっていいものであった。

この<純粋意欲>が「転向」では<愛>という言葉でよばれている。<見る仕事>が終り<心の仕事>を始めなければならないとは、<見る>ことが宿命的にもつ「物の外にあること」と「物への依存」を超えてゆくことにほかならない。そしてそれは<見る>ことの制約を確認することから始まる。「転向」における「見ることには一つの限界がある」と「よく見られた世界は/愛のなかで栄えたいと願う」という詩句は、リルケが直覚した<見る>の限界の一地点を示している。それからあとは、<見る>営みが「物たちが愛のなかで栄える」ことを目ざして、<愛>の力を借りつつ自己超克してゆくプロセスとなってゆく。<見る>はこうして「物の外にある」ことを超えて「もののなか」へと入ってゆく。「外」とは、近代人の無関心、いかなる熟視も内側に抱え込んでいる無関心のことだ。「転向」において「それらは/お前が擒にしたものでありながら さて、お前はそれを知ってはいない」と表現されている近代人の無知のことだ。それを愛の熱情で溶かし、無関心の原因である自己性を解体・超克してゆく。

青空を見るとき、われわれは単に青空がそこにあると思うにすぎない。家を見るとき、単に家がそこにあると思うにすぎない。だが、<見る>を超えた感受にとっては「青空」は何かそれによって心をときめかせるものとなる。「家」は寛ぎと強く結びついた存在となる。すくなくとも、それはただ空が青いという現象的事実ではなく、その青さによって絶えず無限の物想いを語りつづける存在となる。それは時にゴッホの画面に深く沈むオーベールの麦畑の上の青空のように、無限の悲しみを語りつづける。またセザンヌの「大水浴」の遠い青空のように地上の悦楽の極点にある至福を象徴する。

ここでは<見る>は「青空という物」の外にあるのではないし、その現象的事実に従属しているのでもない。逆に、そこに「青空」という新しい現実を生みだし、われわれはその中に入り、無限の内容を生き始めるのだ。「青空」はもはや現象的事実ではなく、感受力は現象する青空の単一性を超え、そこに無限に開かれる青空の映像を映してゆくことになる。それは喜びから悲しみまであらゆる調音を響かせるが、その根底には存在の歓喜が横たわっている。なぜなら<見る>を超えた感受力は、何よりも、存在に内在する生命力と交歓するからだ。それはパリ時代のリルケがロダンのなかに鋭く見出していったものであった。

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

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―山頭火の一句― 行乞記再び -126
5月6日、曇、后晴、ふつてもふいてもよろしい白船居

悠々として一日一夜を楽しんだ、洗濯、歓談、読書、静思、そして夜は俳句会へ。
糞ツ南無阿弥陀仏の話はよかつた、その「糞ツ」は全心全身の声だ、合掌して頂戴した。
句を拾ふーこんな気持にさへなつた、街から海へ、海から森へ、森から家へ。
――
棕櫚竹を伐つて貰ふ、それは記念の錫杖となる。
よく話した、よく飲んだ、よく飲んだ、よく話した、そしてぐつすり寝た。

※表題句の外、11句を記す

久保白船は、山頭火と同様に句誌層雲の同人、また選者としても活躍した。後の昭和15年、山頭火が四国松山の一草庵で急死した際、報せを聞いて駆けつけ、遺体を荼毘に付したという生涯の友。その彼もまた翌年に急逝している。

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Photo/白船が住んでいたのは現在の周南市徳山、その岐山地区に白船の句碑が立つ

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Photo/白船の生地は、周南市よりさらに南東部の平生町、その沖合に浮かぶ佐合島。


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