2010年6月6日日曜日

枯草の長い道がしぐれてきた

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―日々余話― 呑むほどに、酔うほどに‥

昨夜の宴、集ったのは一人増えて7人となった。
いずれも昭和19年生れだが、お互いにとっては初めての人間もいる。いずれの者ともすでに面識あるのはMひとりの筈。

日頃、なかなか会えないのだが、それだけに、逢いたい奴と会うというのは、まことに心地よい。
お互いの太い糸、細い糸を手繰り寄せての集いである。これからも各々個別には相見えることはあろうけれど、この7人が一堂に会することは、もう二度と起こりえぬのかもしれぬ、そんな予感さえ孕む一夕。

誰かが、想いのありったけを、語り尽くす訳でもない。この年まで歩みきて、いまさらそんな必要はない。それぞれに空中戦のように飛び交う言葉の切れ端から、茫としたものながらも立ち上がってくるそいつの全体像といったものが仄みえてくる。それでじゅうぶんに堪能、腹が充たされてくるといった感じだ。

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愉しかった。


―山頭火の一句―
行乞記再び -76-
3月14日、曇、時々寒い雨が降つた、行程5里、また好きな嬉野温泉、筑後屋、おちついた宿だ

此宿の主人は顔役だ、話せる人物である。

友に近状を述べて、-
嬉野はうれしいところです、湯どころ茶どころ、孤独の旅人が草鞋をぬぐによいところです。
私も出来ることなら、こんなところに落ちつきたいと思ひます、云々。

楽湯-遊於湯-何物にも囚へられないで悠々と手足を伸ばした気分。
とにかく、入湯は趣味だ、身心の保養だ。

※句作なし、表題句は1月26日付の句

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Photo/武雄から嬉野へ向かう俵坂峠の番所跡

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Photo/俵坂峠にさしかかる嘗ての長崎街道

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Photo/嬉野温泉、嬉野川沿いの露天風呂


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2010年6月4日金曜日

ここにおちつき草萌ゆる

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-日々余話- 田の字ばかりの朋輩が‥

富山と石川の県境近く、久利須という山深い地に住む友人が、明日は久しぶりに大阪に出てくるというので、同年の友らで逢おうじやないか、ということになった。
今のところ男女6人の同年の輩が集まるようだが、それにしてもこの顔ぶれ、6人中5人までが「田」のつく苗字であることに、いまさら気づいて吃驚してしまった。

日本の苗字は、佐藤と鈴木の二者が他を圧して多いというのは、昔からよく耳にした噺だが、丹羽基二著「日本人の苗字―三〇万姓の調査から見えたこと」-光文社文庫-によれば、姓にもっともよく使われているのが「田」字、次に「藤」、以下、山、野、川、木、井、村、本、中、と続いているらしい。

ちなみに、明日の夜、相寄る「田」のつく朋輩たちを、苗字の多い順に並べてみれば、田中-4位、石田-59位、上田-60位、飯田-124位、林田-416位とあいなる。

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友が住む富山県小矢部市の久利須村-?-

―山頭火の一句― 行乞記再び -75-
3月13日、曇、晴れて風が強くなつた、行程6里、途中行乞、再び武雄町泊、竹屋といふ新宿

同宿は若い誓願寺さん、感情家らしかつた、法華宗にふさはしいものがあつた。

※表題句は<改作>と註あり、他に句作なし

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Photo/武雄町の遠景

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Photo/武雄神社の大楠

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Photo/大楠の内部には小さな祠が

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Photo/武雄温泉の北はずれ、紅葉に染まる廣福寺の山門


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2010年6月3日木曜日

きのふは風けふは雪あすも歩かう

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―表象の森― 「平家物語」と慈円の「愚管抄」

源平両氏が交替で覇権を握るという認識は、平安末期の保元・平治の乱にはじまり、治承・寿永の乱にかけて形成された歴史認識である。しかし内乱の複雑な過程を単純化し、それを源平交替として図式化してとらえたのは平家物語であった。

平家物語の編纂が、比叡山-延暦寺-周辺で行われたこと、とくに天台座主慈円が、その成立になんらかのかたちで関与したことは、「徒然草」226段の伝承―後鳥羽院の御時、慈鎮和尚-慈円-の扶持した信濃前司行長が、平家の物語を作りて、云々とする伝承-からもうかがえ、また、平家物語が延暦寺の動向に詳しいこと、慈円の「愚管抄」との密接な本文関係が指摘されること、からも傍証される。

「愚管抄」が書かれたのは、承久の乱-1221年-の前年、後鳥羽院と鎌倉幕府の関係が、修復不可能なまでに悪化していた時期である。そのような時期に、幕府を敵対的な存在としてではなく、むしろ「君の御まもり」として位置づける慈円の史論とは、現実の危機を歴史叙述のレベルで克服する企てだったろう。

慈円の「愚管抄」によって意味づけられ、平家物語の語りものとしての広汎な享受によって流布・浸透してゆく源平交替の物語とは、要するに、源平両氏を「朝家のかため」「まもり」として位置づける論理であった。いいかえればそれは、武家政権を天皇制に組み入れる論理である。

王朝国家が、武家政権に対して最終的に発明した神話だが、しかしそのような源平交替の物語が、源氏三代のあと、北条氏が桓武平氏を称したことで、以後の歴史の推移さえ規定してゆくことになる。
たとえば、鎌倉末期に起こった反北条-反平氏-の全国的な内乱が、あれほど急速に足利・新田-ともに源氏嫡流家-の傘下に糾合されたこともまた北条氏滅亡ののち、内乱が公家一統政治として落着することなくただちに足利・新田の覇権抗争へ展開した事実をみても、源平交替の物語が、いかに当時の武士たちの動向を左右していたかがうかがえる。

内乱が社会的・経済的要因から引きおこされたとしても、それは政治レベルでは、ある一定のフィクションの枠組みのなかで推移したのである。そしてそのような物語的な現実に媒介されるかたちで、太平記はさらに強固な源平交替の物語をつくりだしてゆく。
  -兵藤浩己「太平記<よみ>の可能性」より

―山頭火の一句― 行乞記再び -74-
3月12日、また雨、ほんに世間師泣かせの雨だ、滞在。

札所清水山へ拝登、山もよく滝もよかった-珠簾庵-、建物と坊主とはよくなかつたが。
終日与太話、うるさくて何も出来ない、私も詮方なしに仲間入して暮らす。
名物小城羊羹、頗る美人のおかみさんの店があつて、羊羹よりいゝさうな!

※句作なし、表題句は2月26日付の句

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Photo/俗に清水観音と呼ばれる九州西国第22番札所清水山宝池院

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Photo/別名珠簾の滝とも呼ばれる名水100選の清水の滝


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2010年6月1日火曜日

四ツ手網さむざむと引きあげてある

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―表象の森― 桃中軒雲右衛門と宮崎滔天

幕末の浪人生活のあげくに、上州高崎で門付けのデロレン祭文の芸人となった吉川繁吉という人物がいた。
繁吉の次男幸蔵は、父の家業を継いで二代目吉川繁吉を襲名するが、まもなく新興の浪花節に転向して、桃中軒雲右衛門を名告るようになる。

師匠三河屋梅車の妻と駆落ちして関西へ逃避行をするなど、とかく不行跡の噂の絶えない雲右衛門だったが、明治35-1902-年に支那革命家の宮崎滔天と出会い、滔天のたっての頼みで、彼を一座の弟子に迎え入れる。
「窮民革命」を唱えて日本各地や大陸の満州を放浪していた滔天は、その思想宣伝の手段として浪花節を選んだものらしい。あえて無頼の悪評高い雲右衛門を選んだ理由は、赤穂義士伝を十八番としたその芸風にあったのだろう。仇討ちの大義に艱難辛苦する雲右衛門の語る赤穂浪人は、まさに明治20年代以後の-民権運動に挫折した-鬱勃たる壮士の姿であり、滔天にとって容易に彼自身が重ね合わされるものだったのではないか。

雲右衛門は、明治36-1903-年、滔天の勧めで九州に下り、以後4年近く、博多を中心に活動する。雲右衛門はおもに赤穂義士伝、弟子の滔天こと桃中軒牛右衛門は、支那革命軍談-革命に揺れ動く支那の現状を実録風に-を語るなどして、二人は九州で大成功をおさめた。
その余勢を駆って雲右衛門は、明治40-1907-年6月に上京、東京本郷座を1ヶ月間にわたって大入満員にすることになる。赤穂義士伝-忠臣蔵-は雲右衛門の名声とともにまたたくまに日本近代の国民叙事詩となり、いっぽうの宮崎滔天は、明治38-1905-年に中国革命同盟会の結成に参加しつつ、孫文や黄興あるいは滔天自身などの支那版義士伝を浪花節にのせて語り歩き、革命資金の調達に奔走していた。まさに語り芸の伝統を地で生きたような人物である。

門付け芸人となった浪人の子、雲右衛門が、大陸浪人の宮崎滔天と結びついたことには、やはり語り芸の系譜の因縁めいたものを思わせる。
それにしても、雲右衛門と滔天が同じ総髪姿で高座に上ったというのは、たんに奇を衒ったという以上の意味があると思われる。総髪に紋付袴という雲右衛門のトレードマークともなった出で立ちは、芝居や講談でお馴染みの彼の浪人軍学者由井正雪のそれである。また雲右衛門が好んで用いたその過剰な舞台装飾、演壇中央に極彩色の前幕と後ろ幕がかけられ、舞台両袖には色とりどりの旗や幟などが立て並べられたという。これら過剰な仕掛けは、日本社会の底辺に伏流したある精神の系譜を確実に指し示している。社会の良俗から故意に逸脱していく芸人雲右衛門と革命家滔天は、まさにその過剰・バサラな演出によって<革命>や<解放>のアジテーターとしての位相を獲得するのである。

雲右衛門の浪花節は、その出し物や語り口-節調-も含め、すべての意味において日本の語り芸の行き着いたカタチであった。たとえば雲右衛門の総髪姿に、語り芸におけるある種の先祖返りが覗えるとしたら、雲右衛門や滔天に受け継がれた語りのエネルギーとは、じつは楠木正成や由井正雪をカタルあぶれ者、<ごろつき>たちのエネルギーである。
宮崎滔天の<アジア主義>の理想が、その後継者たちによって、<大東亜共栄><五族協和>の幻想にすりかえられていったことが周知のように、日本社会のネガティブな部分が、歴史的にみてもっともラディカルな<日本>的モラルの担い手であったという構造がある。彼らのアジテートするもうひとつの天皇の物語が、ある種の<解放>のメタファーとして機能したこと、その延長上には、日本近代の<国民>国家のイメージさえ先取りされていたのである。
   -兵藤裕己「太平記<よみ>の可能性」より抜粋

―山頭火の一句― 行乞記再び -73-
3月11日、晴、小城町行乞、宿は同前

ずゐぶん辛抱強く行乞した、飴豆を買つて食べる、焼芋を貰つて食べる、餅を貰つて食べる、そして酒は。…
三日月といふ地名はおもしろい。

此宿はよい、木賃25銭では勿体ない。
同宿5人、みんなお遍路さんだ、彼等には話題がない、宿のよしあし、貰いの多少ばかりを朝から晩まで、くりかへしくりかへし話しつづけてゐる。

※句作なし、表題句は2月28日記載の句

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Photo/町の中心部にある小城公園、現小城市小城町

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Photo/小城町岩藏、江里山の棚田-A

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Photo/小城町岩藏、江里山の棚田-B


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2010年5月31日月曜日

酒やめておだやかな雨

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―表象の森―「究極の田んぼ」

耕さず肥料も農薬も使わぬ-不耕起移植栽培と冬期湛水農法

不耕起とは文字通り、田んぼの土を耕さずに、苗を植えること-イネを刈り取った後のイネ株をそのまま残し、そのイネ株とイネ株の間に今年の新しい苗を植える。移植とは、あらかじめ苗を育てておいて、田植期にそれを移植すること。田んぼに直接種籾をまく直播き法ではなく、一般的に行われているように、苗を別に育てておいて、田植えの時に移植する方法で、苗の育て方が一般と違い、稚苗ではなく、成苗にしてから移植する。

冬期湛水法とは、冬に田んぼに水を張っておく農法-一般的には、秋にイネ刈りをした後、田んぼをそのままにしておき、春の田植えの前に田起しをしてから水を張って苗を植えるが、冬期湛水は、冬にも田んぼに水を張っておき、田んぼの中の光合成を促し、植物プランクトンやそれを餌にする動物プランクトンの発生を助け、イネの生長に必要な栄養分が供給されることを狙うもので、結果として無肥料栽培になる。また、雑草の発生も抑えられるので、無農薬栽培にもなる、という。

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―今月の購入本―
・岩澤信夫「究極の田んぼ」日本経済新聞出版社
千葉の変人-奇跡の農法! 田んぼを耕さず、農薬も肥料も使わずに多収穫のイネを作ることに成功した男が、不耕起移植栽培の普及と環境再生農業の提唱、市民と農家が共に楽しめる、地球と人と生きものに本当に優しい市民農園・村おこし構想を提言する。

・兵藤裕己「琵琶法師-異界を語る人々」岩波新書
モノ語りとは“異界”のざわめきに声を与え、伝えること。最後の琵琶法師・山鹿良之を直接取材すること10年余-聖と俗、貴と賎、あの世とこの世の“あいだ”に立つ盲目の語り手、琵琶法師-古代から近代まで、この列島の社会に存在した彼らの実像を浮彫にする。

・兵藤裕己「太平記<よみ>の可能性」講談社学術文庫
太平記よみの語りは、中世・近世を通じて人びとの意識に浸透し、天皇をめぐる二つの物語を形成する。その語りのなかで、楠正成は忠臣と異形の者という異なる相貌を見せ、いつしか既存のモラル、イデオロギーを掘り崩してゆく。天皇をいただく源平武臣の交代史、宋学に影響された名文論が、幕末に国体思想にヨミ替えられ、正成流バサラ再現としての薩長閥の尊皇攘夷へと続いてゆく。講談社刊の初版は95年。

・西村亮「源氏物語とその作者たち」文春新書
著者は、長年折口信夫に師事し、古代学の継承と王朝の和歌・物語の研究に努めた人。原稿用紙にして2500枚にも及ぶ長大な源氏物語を、紫式部が一人で書いたのか。―文体や登場人物の扱いなどに着目し、錯綜する展開を解きほぐすこと で見えてきたのは、「宇治十帖」のみならず多くの部分が、読者によって自由に加筆や修正が行われ「成長」していった事実だった。

―図書館からの借本―
・石川九楊「書の宇宙 -24-書の近代の可能性・明治前後」二玄社

・別冊太陽「泉鏡花-美と幻影の魔術師」平凡社
鏡花の曰く「僕は明かに二つの大なる超自然力のあることを信ずる。これを強ひて一纏めに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ばうか、共に人間はこれに対して到底不可抗力のものである。」

―山頭火の一句― 行乞記再び -72-
3月10日、雨となつた、行程2里、小城町、常磐屋

降りだしたので合羽をきてあるく、宿銭もないので雨中行乞だ、少し憂鬱になる、やつぱりアルコールのせゐだらう、当分酒をやめようと思ふ。

早くどこかに落ちつきたい、嬉野か、立願寺か、しづかに余生を送りたい。-略-

夜は文芸春秋を詠む、私にはやつぱり読書が第一だ。
ほろりと歯がぬけた、さみしかつた。

追記-川上といふところは川を挟んだ部落だが、水が滑らかで、土も美しい、山もよい、神社仏閣が多い、中国の三次に似てゐる、いはば遊覧地で、夏の楽園らしい、佐賀市からは、そのために、電車が通うてゐる、もう一度来てゆつくり遊びたいと思うた。-略-

春日墓所-閑叟公の墓所-は水のよいところ、水の音も水の味もうれしかつた。

※表題句の外、句作なし

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Photo/川上峡の十可苑は、嘗て鍋島侯の別荘地であった

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Photo/紅葉盛んな十可苑

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Photo/小城市小城町にある須賀神社

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Photo/神社境内の阿吽の狛犬


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2010年5月30日日曜日

樹彫雲影猫の死骸が流れてきた

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―世間虚仮― 無煙タバコ騒ぎ

今月、JTがさしあたり東京都内限定で売り出したという「ゼロスタイル・ミント」なる無煙タバコの扱いをめぐってなにかと喧しく取り沙汰されているそうだ。

ニコチン含有量は0.05mgと従来の軽めのタバコと比較して1/20、タールの含有はゼロ。とはいえタバコには違いなく、完全無害とはいえない。
曰く「<無害>という表示は健康に及ぼす悪影響が他製品と比べて小さいことを意味するものではありません」とパツケージに警告表示しているそうな。

他方、禁煙団体などは「使用者の呼気からニコチンなどの物質が吐き出され、周囲の人は予期せぬ危険にさらされるかもしれない」と懸念表明。これには「非情に微量で問題ない」と応答するJT。
日航は機内で認めるといい、全日空では認めないと、対応が別れているのも問題だが、いまのところ自治体では禁煙ゾーンで吸ってもOKとしているのが多いらしいが、これだって自治体によっては所変われば‥になること必至。
奇妙なものを作り出して波乱をまねくJTの本音は、いったい何処にあるのかネ。

―山頭火の一句― 行乞記再び -71-
3月9日、曇、なかなか冷たい、滞在供養。

例の画家に酒と飯とを供養する、私が供養するのぢやない、私の友人の供養するのだから友人から-送つてくれたゲルトだから-お礼がいひたかつたら、友人に言つてくださいといつたりして大笑ひしたことだつた。

今日一日で旅のつかれがすつかりなくなつた。

※表題句は3月5日付の句、句作なし

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Photo/川上峡付近の春日墓所には鍋島直正の墓がある
幕末期の鍋島藩主直正は、明治維新の廃藩置県に真っ先に賛同したとされる

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Photo/川上峡上流の風景

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Photo/夏の風物詩、灯籠流し

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Photo/名園の誉れ高い一可苑の庭


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