2011年7月14日木曜日

水をたゞようて桐一葉

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―四方のたより― 神田代舞に疑問?-住吉の御田植祭-

先月の今日すなわち6月14日は住吉大社の御田植祭だった。
この日、私は物見遊山よろしくこれを見学に行ったのだけれど、此処に書く機会を失したままとうとう1ケ月が経ってしまったわけだが、この機に触れておこう。
大社本殿の南に位置する御田は約2反歩-2300㎡-の広さという。
その御田の周囲には、仮設の観覧席が設えられてあり、その席料は1000円也。ずいぶんと大勢の人だかりで、観覧席の外にも立ち見の人がかなりの数。
御田中央には三間四方はあろうかという屋根付の舞台があり、橋懸りよろしく渡り廊下が架かっているが、これらも年に一度の行事のための仮設であるらしい。

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Photo/住吉大社御田植祭、苗を植える植女たち-’11.06.14

午後1時過ぎからはじまった御田植祭の次第は以下のとおり
・修祓-神田を祓い清め、神水を田に注ぐ
・早苗授受-中央舞台で植女から替植女に早苗が渡され、替植女は田に植付をはじめる
・田舞-巫女姿の八乙女が舞台中央の風流花傘を軸に円形で舞う
・神田代舞-御稔女が豊穣祈願の神楽を舞う
・風流武者行事-中央舞台で侍大将が武運長久を祈る所作を演じる
・棒打合戦-御田の畔の東西から甲冑武者が陣太鼓・陣鐘・法螺貝を吹き鳴らし、紅白に分かれた雑兵が六尺棒にて合戦を演じる。
・田植踊-舞台と畔にて早乙女らによる田植踊
・住吉踊-舞台では住吉踊大傘の柄を叩きながら、畔では百人以上の童女らが歌に合せて踊る
といった流れでざっと一時間半近くを要したか。

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Photo/住吉大社御田植祭、八乙女たちが舞台へと渡る-’11.06.14

それぞれの役を演じる人々だけで300人は要したろうという大所帯で、老若男女の氏子衆ばかりか、住吉踊の童女なぞは近くの小学校からの学校ぐるみの参加なのだろう。
眼前に繰り広げられる賑やかにショーアップ化された運びを見ながら、この神事のスタイルが現在のような形にいつごろ定着してきたものかといろいろ思いめぐらせていた。
「社伝によれば、約1800年の昔、第四本宮御祭神の神宮皇后が大社を御鎭祭の後、長門国植女を召して御供田を植えさせられたに始まる」というその由緒についてはいわば伝承の世界、その真偽のほどを云々する要もあるまい、。
いつの頃からか、「植女の役を代々担ってきたのは嘗て社領でもあった堺乳守の遊女だった」ともある。乳守-今の御陵前南半町東辺り-は、龍神-今の宿院栄橋町辺り-と並んで堺の二大遊郭といわれ、その歴史も戦国の自治都市堺の時代に遡りうるから、その頃からかあるいは江戸の頃からか、乳守の遊女たちが植女の奉仕をしてきたのかもしれない。
時代は下って、明治維新の頃には中断された時期があるという。その中断をはさんで以後は昭和の戦前まで新町廓の芸妓衆が植女を務めてきたといい、そして現在は上方文化芸能協会による奉仕である、という。もちろんこの団体も大阪の芸妓衆が寄る近代化した組織だから、その内実は同じことで、浪速の街の芸妓衆が植女を演じてきたわけで明治から連綿と続いてきたことになる。
さらにつけ加えると、この御田植神事の「芸能」が無形文化財に選定されたのが昭和46年、そして昭和52年には、芸能ばかりでなく農事も含め御田植神事全般が重要無形民俗文化財に指定された、とのことである。

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Photo/住吉大社御田植祭、武者たちの行列-’11.06.14

ネットで調べてみたが、現在各地で催されている御田植は、此処の形式や構成に比べてかなり素朴なもののようだが、その詳細まではよくわからない。ひとつ参考になるのが、多賀大社と住吉大社の御田植の模様を解説並記したサイトだ。
「多賀大社においては田植えとほぼ同時進行で、田楽・弓舞・湯立神楽・豊栄舞・囃し田そして尾張万歳が奉納される。」
とあり、それらの写真が添えられているが、その構成・運びは、源平よろしく棒打合戦など挿入した住吉の場合ほどに劇的な構成とはいえない。形式において多賀のほうがより古式を伝えているかと見受けられる。

さて、私はこの稿の表題に「神田代舞に疑問?」と掲げた。
「神田代舞」は「みとしろまい」と読むが、これを奉納する舞手を「御稔女-みとしめ-」と呼称している。その舞が、豊穣祈願の神楽といい、能の手振りをとり入れた、雨乞を祈願する龍神の舞だとされているが、私の眼にはとてもモダンなものにしか映らなかったのである。踊り手が芸妓さんなら日舞の手練れということだろうが、その日舞にも古式もあればちょっぴりモダンな味わいの表現もある。しかしこの舞は神楽としている、ならばその振付といい、またその動き、身のこなしといい、このモダン臭はいくらなんでも相応しくなかろう、なんでこうなるの!?
そう見て取ってしまったから、この不思議を自分なりに落着させねばならない。
「神田代舞の歌」として小誌にその歌詞が掲載されている。前歌-短歌/本歌-長歌/後歌-短歌/後詞-長歌の4部形式となっているが、意外にもこの歌に作詞者と作曲者の名が記載されていた。作詞は安江不空、作曲は杵屋佐吉。
「安江不空」-1880~1960明治-昭和の歌人・画家。明治13年1月1日生れ、奈良県出身、名は廉介。京都で富岡鉄斎に師事、東京に出て正岡子規の門で歌を,岡倉天心に絵を学ぶ。明治33年根岸短歌会に入り「馬酔木-あしび-」などに投稿掲載。43年関西同人根岸短歌会を結成した。昭和35年3月23日死去、享年80歳。-出典:日本人名大辞典-
「杵屋佐吉」のほうはご存じ長唄三味線の家元だから、この作曲者がはたして何代目の佐吉にあたるのかだが、4代目-1884~1945-なら襲名が1904-M37-年、5代目-1929~1993-なら1952-S27-年の襲名とあり、5代目佐吉との協働だったと考えるのが妥当だろう。
要するに「神田代舞の歌」が新しく創作され成立したのは、歌人安江不空最晩年の昭和30年代前半、ということになるのではないか。そう考えれば、このモダン臭の強い「神田代舞」の振付所作も合点のいくものとなるのだ。
ならば抑も、この御田植神事の内に、古来から「神田代舞」が伝承されてあり、何らかの事情で途絶え、元の歌も舞の資料も保存なく、これを復活させるため新たに作られたものか、あるいは昭和30年代のこの時にまったく新しく挿入付加された神事なのか、それが問題だが、そこのところは住吉大社側に直かにあたらないことには明らかにはなるまい。

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Photo/住吉大社御田植祭、神田代舞の御稔女-’11.06.14

ところで、無形文化財などの制度が成ったのは、1950-S25-年制定の文化財保護法に拠るものである。
しかし、当初の制度では「現状のまま放置し、国が保護しなければ衰亡のおそれのあるもの」を選定無形文化財として選定するという、消極的保護施策であったから、1954-S29-年の改正により、選定無形文化財の制度は廃止され、「衰亡のおそれ」あるか否かではなく、あくまでも無形文化財としての価値に基づき、重要なものを「重要無形文化財」に指定する、という積極的な保護制度に変わっている。
おそらくはこのあたりの背景が、御田植祭の形式・構成のありようを膨らませ、より劇的なものに改良させたのではないかという推量も成り立つ。
先に掲げた式次第をあらためて眺めてみれば、神事の古層を伝えると思われるものは、修祓/早苗授受/田舞/田植踊くらいではないか。田舞自体に豊穣祈願の意味が込められていたろうから、神事の原型としてはこれで充分な筈だ。そこへ神田代舞/風流武者行事/棒打合戦と加われば、俄然劇的な構成となりまた壮大な絵巻世界ともなってくる。おそらく住吉踊は、神社に別様に伝わるもので、神事の最後に置かれた。この歌詞はどう見ても明治以後の成り立ちだろうが、メデタメデタと言祝ぐ踊りだから、これを付け足せば立派なエピローグともなって、一座は大団円のうちに幕となるわけだ。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-186

7月14日、曇、まだ梅雨模様である、もう土用が近いのに。
今日も待つてゐる手紙がない、旅で金を持たないのは鋏をもがれた蟹のやうなものだ。手も足も出ないから、ぼんやりしてゐる外ない、造庵工事だつて、ちつとも渉らない、そのためでもあるまいが、今日は朝から頭痛がする。‥‥
山を歩く、あてもなしに歩きまはつた、青葉、青葉、青葉で、ところどころ躑躅の咲き残つたのがぽつちりと赤いばかり。
めづらしく句もない一日だつた、それほど私の身心はいぢけてゐるのだらうか。

※この日句作なし、表題句は7月10日記載の句

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Photo/川棚の大楠の森に立つ山頭火句碑-’11.04.30


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