2010年9月9日木曜日

松風に鉄鉢をさゝげてゐる

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―日々余話― よしなしごと

九州西北部をかすめるように日本海に到つた台風9号は北陸路に上陸して関東をぬけるというまことに変則なコースを描いて熱帯低気圧に変わつた、と。おかげで昨日今日と、酷暑も和らいでしのぎやすい。河川の氾濫や浸水など、被災報道のかたわら、漁港や農家などには恵みの雨ともなるといった報道もあり、自然の猛威のプラスマイナスは一概には測りがたい。石川県では30℃以上の真夏日の連続記録を更新していた小松が、最高気温25.9℃で前日までの54日間でストップ。金沢も26.1℃にとどまったそうだ。

2.3日前だったか、連合い殿が、神尾真由子の「Paganini-24 Capricci」を自分のポータブルオーディオにダビングしてくれ、という。長引く酷暑のなかで心身ともにボロボロ状態でなお仕事に出かけているが、これを聴いては気分一新、ヤル気を引つ張り出すのだ、と曰う。
私も、いま、その24 Capricciを聴きながらこれを書いているのだが、そりゃ変幻自在おもしろくも見事な演奏だが文字通り奇想の曲とも呼ばれる些か狂気じみた世界である。これを聴いてリフレッシュとは、どう考えてもやはり彼女、めずらしい神経の持ち主、変わった御仁というしかないようである。

―山頭火の一句― 行乞記再び -101
4月11日、晴后曇、行程6里、深江、久保屋

歩いてゐる、領巾振山、虹ノ松原、松浦潟の風光は私にも写せさうである、それだけ松原逍遙、よかつた、道は八方さわりなし。
今夜はずゐぶん飲んだ-緑平兄の供養で-、しかし寝られないので、いろいろの事を考へる-其中庵のこと、三八九の事。
酒は嗜好品である、それが必需品となつては助からない、酒が生活内容の主となつては呪はれてあれ。
木の芽はほんたうに美しい、花よりも美しい、此宿の周囲は桑畑、美しい芽が出てゐる、無花果の芽も美しい。

※表題句の外、7句を記す

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Photo/領巾振山-鏡山から-虹ノ松原を望む

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Photo/唐津城の天守から眺望した虹ノ松原


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2010年9月5日日曜日

石がころんでくる道は遠い

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―日々余話― 1960~、十五の春から半世紀

三日前-2日-にようやく発送を了えた高校同期会の総会案内。
入学が1960年だったから、今年でちようど50年が経ったことになるので、案内の表題をかようにした。

「1960〜 十五の春から半世紀。」
ICHIOKA 青春のはじまり、あの頃ぼくらは21世紀に生きることなど想像の埒外だった。

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このたびは、特別ゲストとして現役の高校生たち「吹奏楽部」に出演してもらう予定なのだが、そんな企画や入学から50年ということもあって、幹事諸氏には遠い昔となった高校生活を振り返って、市岡時代の今も鮮やかに記憶に残ることなどを、短いコメントとして書いて貰って、案内紙面に網羅することにした。結果18のコメントが並ぶことになった。
そのいくつかを紹介しよう。

「60年安保でゆれた高一生活! 高三の文化祭でのあのフォークダンス!! 未だに青春が生きてます!!!」
「入学当初は野田阪神前から路面電車通学でした。いつから環状線に乗るようになったか思い出せません」
「ホームルーム、文化祭、フォークダンスetc.…、そして50年経っても青春を語れる友を得た」
「先生と生徒の間が友達のように近くて驚きでした。私の通った中学は厳格すぎたのか? ありえないことでした」
「初めての革靴と市電通学、ESS、先生方のお顔‥。文化祭で生物部の血液型判定O型が、成人後AB型と判明!?」
「2時間連続のロングホームルームで靱公園等へ出かけたり、与えられたテーマで討論会をしたこと」
「一年生の遠足の岩涌山ハイキング、喉は渇くワ、きついワ、翌日からは筋肉痛になるワ、の苦行でした」
「演劇部の部室、照明用ライトで弁当を暖め早飯。昼休みはフルタイムで遊ぶ。試験中の卓球三昧でずいぶん上手くなった」
「チャイムと同時に教室に入る手島先生に、一歩負けて何度も遅刻になり悔しかった事!」
「昭和36年9月16日の第二室戸台風、自宅床上浸水、泥水の中登校、教室も浸水、壁の白片が散らかっていた」
「アルバムの中で着用している夏の制服、家庭科の授業で悪戦苦闘しながら頑張って仕上げた作品です」etc.

そして私のは、「入学まもない6.19、200人ほどの生徒らが気勢を上げながら校庭を周回して御堂筋デモへ。心ざわめきつつ3階の講堂の窓からただ眺めやっていたぼく‥」と。
特活や全校集会で安保議論が熱を帯びていった当時、演劇部だった私には新人公演の稽古が重なっていたから、御堂筋デモへ参加すべく気勢を上げている200人ばかりの集団を、講堂の窓から眺めやるしかなかった訳だが、その中に同じクラスの何人かの顔馴染みを見出しては、あちらとこちら、その距離がなんだか居心地の悪さやら落ち着かなさをもたらしたのだろう、忘れ得ぬ光景としていまも鮮やかに残っているのだ。

―山頭火の一句― 行乞記再び -100
4月10日、曇后晴、行程8里、唐津市、梅屋

8時から6時まで歩きつづけた、黒川と波多津とで行乞、海岸路山間路、高低曲折の8里を歩いて来たのだから、山頭火いまだ老いず矣-但し途中キツケ水注入-。-略-
さすがに田舎は気持がよい、手掴みで米を出すやうな人もなく、逢ふ人はみな会釈する、こちらが恥づかしくなるほどだ。
御大典記念の時計台がこしらへてある、いい思ひつきだけれど、あんなところにこしらへたのが、さて、どりくらゐ役立つだらうかとも考へられる。
今日、はじめて蟇を聞き蛇を見た。
やつぱり南国の風景は美しすぎる、築山のやうな山、泉水のやうな滝、‥まるで箱庭である。
山ざくらはもう葉ざくらとなつてゐた。
山村のお百姓さんはほんたうによく働いてゐる、もつたいないと思つた、すまないと思つた。
同宿4人、二人は夫婦、仲のよいことである。
今夜の酒はうまかつた、酒そのものはあまりよくないのに。

さつそく留置郵便をうけとる、どれもありがたかつたが、ことに緑平老のそれはありがたかつた。
私は何も持つてゐない、ただ友を持つてゐる、よい友を持つてゐることは、私のよろこびであり、ほこりでもある。
緑平老のたよりによれば、朱鱗洞居士は無縁仏になつてしまつてゐるといふ、南無朱鱗洞居士、それでもよいではないか、君の位牌は墓石は心は、自由俳句のなかに、自由俳人の胸のうちにある。-略-
人間に対して行乞せずに、自然に向かつて行乞したい、いひかへれば、木の実草の実を食べてゐたい。

※表題句の外、7句を記す

伊万里の中心街から唐津街道-国道204号線-を歩くと唐津市までほぼ32km余、8里である。伊万里市の黒川町、波多津町あたりまでは海岸線が続き、以後は長い山間路となる。

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Photo/黒川町には、嘗て大阪市内の木津川筋にあった名村造船が昭和49年から移転している

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Photo/波多津の近く、高尾山公園から望む伊万里湾風景


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Photo/波多津から福島へと橋を渡れば、名高い土谷の棚田がある
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2010年9月4日土曜日

夫婦仲よく鉄うつやとんかん

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―日々余話― Soulful Days-40- 三回忌に迎える山場

午後1時前、地下鉄淀屋橋の駅から地上にあがるとうだるような暑さ。堂島の川風も湿気をいっぱいに含んでなんの慰めにもならない。裁判所近くの弁護士事務所までの5.6分の距離も、右に左にと、わずかなビルの日陰を求めながら歩く。

明日はRYOUKOの三回忌の法要を内々に執り行うことになっているが、その前日に弁護士と会うことになったのは、この13日に控えた公判期日の打合せのためだ。7月30日の前回公判で裁判官からの提案で、いわば和解勧告へ向けた布石としてだろうが、被告と原告双方が直に向き合い話し合う機会を得たいと、次の公判期日が設定されたのである。事故から丸2年、事故究明に端を発した刑事・民事双方の訴訟も、刑事は5月に決着をみ、民事もまた解決へと急転していくその山場を向かえようとしているわけだが、その日があろうことか、命日の前日というのはなんという符号か。それが決められた際に私は同席していたのだが、思わずRYOUKOの面影が脳裏を走り、小さく呻ってしまったものだった。

さかのぼって、5月21日付、われわれは被告Tに対し「請求の拡張申立」を行っていた。
被告側がわれわれの損害賠償請求に対し冒頭より無過失を主張したり、医師免許国家試験受験の欠格事由にあたる罰金刑となるのは必定であったにもかかわらず、どさくさに紛れるかのように2月に本年度試験を受験したりといった行為が、まったく事故責任を省みないものであり、また一片の反省の色なく、被害者心情を著しく傷つけるものとしての申立てであり、損害賠償請求に加えての慰謝料請求といったものである。
この申し立ての際に付した「T.K宛慰謝料請求のために」と題した陳述書は、その殆どの部分が先の「述べられなかった意見陳述草稿」に重なる。

この申立てに対し、6月25日付、被告代理人から答弁書が出されてきたのだが、その内容がまたこちらの心情をいたく逆撫でするものだった。よって私は反論の反論のため、またまた長い文書を書く仕儀となってしまった。先の文書が、自身のための、いわば総括的なものであっただけに、どうにも腰が重かったのだが、そうもいっておられず、無理強いにのようになんとかモノしたのが以下の文書で、7月30日付、裁判所に提出したものである。

 陳 述 書
平成21年(ワ)第****号 交通事故による損害賠償請求事件
大阪地方裁判所 第15民事部**係 殿

平成22年6月25日付、
被告代理人が提出した「請求の拡張申立に対する答弁」における、
主に「第3-被告Tの主張」に関して

1について-
事故当夜における対面は、事故当事者である両者-MとT-からともに当事者である旨の挨拶を受けたものであり、この一言二言の自己紹介的な挨拶を謝罪と数えあげるのは、事故直後の救急車で運ばれる時より被害者RYOUKOが意識不明の重篤にあったことを認識していなかったわけでもなかろうに、事態の深刻さをあまりにも軽んじた言い分である。
また、この折、Tに付き添ってきた婦人が母親であることは、名告りも受けていないし、まったく接触もしていないのだから、私としては母親と知る由もない。
よって、この両者から謝罪の言葉を頂戴したという主張は、まったくもって人を喰った話というしかない。

以下、2から5について-
まず反証資料として、
1.平成20年9月23日付、私からT.K宛送付した書面の写し、
2.同9月30日付発信の、T親子から送付された返書の写し
3.同10月2日付、私からT.K及び父Aに送付した書面の写し
4.同10月10日付発信の、T親子から送付された返書の写し
の4つの書面を付したい。
とくに、10月2日付の私からの書面にあるように、被害者RYOUKOが生死の境にあって集中治療室にある以上、なによりもその家族と接触を図り、それが被告らにとってどんなに耐え難いことであろうとも、直々に謝意を伝え、相手の心の傷みや苦しみを正面から受け止めようとするのが喫緊のことであり、人倫としての務めであること。
その喫緊の人倫の務めを怠りながら、被害者家族にまったく見えないところで、回復祈願をし、さらには冥福を祈り供養をしたとて、それは何のための誰がための祈願であり供養だろうか、なによりも自分たち自身のため、自分たち自身の心の呵責を癒すためのものでしかなく、いわば自慰行為にも等しいものだということであり、被告及びその両親は、私からの書面に発したこれら4つの書面のやりとりまでは、RYOUKOの死という犠牲を招いてしまった事故の、この悲劇的な事態にまったく正面から向き合おうとせず、逃避行を決め込んでしまっていたのである。自分たちは自分たちなりに回復祈願を、あるいは供養をというのは、被害者及び被害者家族の沈痛な嘆きや心情を無視した、あまりに偽善、あまりに身勝手な善人面の仮面というしかない。

6について-
まず注意を喚起しておきたいことは、10月9日の午前、被告Tとその両親は、前触れもなく原告林田育代宅を訪ね、不在であったためメモを残しているというのは確かであるが、被告らのこの行為が、私の再度の書面に対し返信-10月10日付発信-する前日のことだということに留意してもらいたい。
被告側からの返信はすべて被告Tの父Aが書いたものであることは一目瞭然であるが、父Aは、私からの二度目の書面を読んで返答に窮したと容易に察せられる。そこでいわば局面打開の実力行使に出た、私とは別居してきた被害者RYOUKOの位牌のある場所即ち原告育代宅を突然訪ね、直々にお参りをという行為にでたのである。ところが折悪しく不在であったため名刺のメモを残したということだ。
そして、その日のうちに、私宛の返信を書き、翌日投函しているわけだが、その朝の原告育代宅訪問については、近日中に参りたいと思いますと記すのみで、不在だったものの既に訪問してみたことはなぜだか伏せている。
同じ9日の午後、原告育代から私に電話があった。「私が留守中でよかった、もし居たとしたら、今の自分にはとても冷静に応接など出来るはずもない、自分自身なにを口走るか、考えるさえ怖い。だから来ないようにして欲しい。」とそんな内容だった。
そこで私は夕刻になってから、被告Tの携帯に連絡をした。電話といえばこの携帯しか知らなかったからだ。単刀直入、「父親に電話をするように」と。
折り返し、父Aからの電話に、「勝手に実家-原告育代宅-を訪ねるようなことは、今後けっしてしてくれるな。本人は、突然またいつ来られるかと思えば、それだけで胸苦しくさえなると訴えている。何をするにも私を通してもらいたい。いずれ受け容れられるようなときがきたら、私から連絡もしよう。」といった旨を伝えたにすぎない。

7.8について-
このたびの請求の拡張申立における書面において、私自身記したように、交通事故とは偶然に満ちたものであり、運転者双方の些細なミスによって生じるものであり、誰も故意に起こすものではない。ならばその僅かな不注意で、人一人を死に至らしめるというとんでもない事態を招いたとすれば、その原因となった事故当事者たるもの、犠牲者及びその家族とはまた別次の責めや傷みを負わざるをえないと容易に察せられる。だから相手を恨んだり責めたりはすまい、しないと自分を律してきたつもりである。
そのことは現在に至るも同じで、今も被告Tを恨んだりはしていない。なんで事故なんか起こしたんだなどと責めるつもりもない。そういった責める思いと、誰にも起こりうることであってみれば、責めるのは可哀相だ不憫だと、ジレンマに陥らざるをえないのはむしろ被告Tの両親のほうだろう。
そんなことは分かりすぎるからこそ、私は、被告T自身の謝罪に対してというよりは、父Aの子を思う真摯な謝罪に対して、一定の受容をしてきたのである。
現に被告T代理人によって提出された答弁書全容からも容易に覗えることは、被告T自身による一連の謝罪行為というよりは、どこまでも父Aが主体となった謝罪であり、私とのさまざまの応接である。
もう30歳にもなろうかという立派な成年男子でありながら、被告Tが自ら主体的に、私に向かって、はっきりと物を言い、また何かを為したということはなく、親に伴われて、借りてきた猫のごとく、そこにただ居合わせてきただけである。
それでも私は、母親である原告育代や、被害者のたった一人の弟の、被告Tへの心情的な受け容れがたさを知りつつ、私自身が彼らになりかわり、批判は批判としつつ無念は無念としつつも、受け容れていかざるをえないと考え、応接してきたのである。
それが11月8日の父Aと被告T両者との一時間余の対面であり、12月25日における私のみの立会いでの故人へのお参りの許容であった。

9.10について-
たしかに、このまま推移すれば、時日はかかったにせよ原告育代や弟の、被告Tに対する心情もやがては和らいでいった筈である。
ところが、180°の急転を見せるのは、年が明けて1月30日、私と原告育代が検察庁の呼び出しに応じて、初めて担当検事の西本副検事に会い、事故原因に関する概況や、M並びにT被告への刑事処分に関する検察判断等を聞かされてからである。
とりわけ、被告Tが、元医学生であったこと、さらには事故の反省から医師免許国家試験をめざそうとしている有意の青年であるから不起訴処分に、という温情的判断が示されたことは、私にとってまさに驚天動地の出来事だったのだ。
元医学生、それも大阪市立大学の医学部卒業である。さすれば世間知はともかく、知識もあれば知恵も人並み以上にある。その被告Tの、事故当初の被害者及び被害者家族への無関心ぶりは一体なんだというのか。そして私からの怒りの書面を受けてからも、被害者家族に対して、いっさい自らは行動を起こさず、直かに物を言おうとせず、親の傍らに隠れるようにしてその場をやり過ごしてきた彼という人間は、一体どういう恥知らずなのか。
これは被告Tの高等戦術なのだ、彼は親の前でもどこまでもよい子を装い、もちろん私の前でもそうして演技している、そんな仮面を被った狡知に長けた人間、それが被告Tの本性なのだと、私が受け取ったのは事の成り行きからして必然だったのである。
それからの私は、自ら事故状況を詳しく知らねばならぬと、俄然行動的になった。
まず、私の方から事故当事者Mに連絡を取り、事故状況について説明を求めた。被告Tの「もらい事故」なる怪しからぬ噴飯物の発言は、この席でMから聞かされた話である。これが翌日の1月31日。
Mの雇用者、MKタクシーには、ドライブレコーダーのコピーを是非見たいと要請した。その傍ら、2月10日には、被告Tを刑事告訴した。
待望のドライブレコーダーをようやく手にしたのは3月13日、なんどもなんども繰り返し見た。記録画像は、1/2と1/5のスローモーションでも見られるようになっている。
M車が右折行為にさしかかろうとする、事故より6秒ほど前から対向車線を軽四のトラックが、2.5秒ほどかけてゆっくりと広い交差点を通り過ぎているが、この車の前照灯は鮮明に映っている。また、事故直後の対向車線上には、赤信号に変わって信号待ちで停止している乗用車の前照灯も、路面を照らしているのがよくわかる。
軽四トラックが通り過ぎてから、M車が右折から直進へと移行しつつあるが、この前照灯による路面変化もスローモーション画像なら見て取れる。
ところが、70km/h以上で直進してきたという被告T車の前照灯による路面変化は、直交してくる横合いからの光だからはっきりと映るはずなのに、スローモーションでさえもまったく見られないのである。
そしてまた、ドライブレコーダーに基づく調査とされる甲8号証の8「実況見分調書」における、事故発生3秒前の被告T車の想定位置写真や同じく2秒前の位置写真、この場合の仮想T車は前照灯を灯したものであるが、これを見れば、少なくとも2秒前において、MがT車を視認しないはずはないとするのが至当であるのに、MがT車にまったく気づきえなかったのは、T車の無灯火運転を証拠づけるものである。
ドライブレコーダーをごくニュートラルな眼で、素直に見る限り、これが事実である。被告T車は無灯火であったとしかいいようがない、というのが記録画像の明らかに語るところだ。
ところが、大阪府警科捜研は、ドライブレコーダーの画像は高精度ではないからと、あえて検証対象から外した。そして、この記録の機械的構造から起きるタイムラグを微修正しながら、詳細なタイムレコーダーのみを作り上げ、事故原因の分析対象とした。それが6月28日付、被告T側から提出された準備書面2が根拠にもしている甲8号証7の鑑定書である。
これは、はっきりいってインチキだ。科捜研は府警西警察署が作成した事故の概況及び調書等にまったく矛盾しない報告書を作るべく腐心しただけの苦心の作だ。畢竟それは検察の意志でもあったろう。
またご丁寧なことに、M被告の刑事裁判では、公判の法廷において、このドライブレコーダーをスローモーションではなく実際の速度で液晶画面に映し出している。それも裁判官の要請で二度までも。しかし、ほんの10秒ほどの出来事を実際のスピードで法廷の画面に映し出し、これを遠目に眺めてみたところで、詳細のほどは知れようもない。いかにも法廷では画像のほうもちゃんと実況見分したよといわんばかりで、まるでセレモニーの具にされたようなものだ。
先に記したように、M車の右折行為は、軽四トラックが交差点内を進行しはじめるあたりから始まっており、いよいよ右折から直進へと移るまでに5秒ほどかかっているというまことにゆっくりとしたものである。その間、被告Tにとって、M車の姿は見えずとも前照灯の移ろいは、前方を注視していれば3秒も4秒も前から気づいて当然のものだ。このことからも、被告Tは無灯火であったばかりか、2秒あまりの脇見運転までもしていたとしか考えられないのである。
これら無灯火についても脇見についても、被告Tにとっては消し去りようのない事実であり記憶である。彼は、事故当初より、この事実を隠蔽し通さねばならなかった。もし自分の過失が大となれば、一人息子として両親から庇護され保証されてきた手厚いまでの恩恵、医者になるよりもまた留年してまでも趣味を活かしたウェイクボードのプロの道、申し訳程度にしたい時出来る時にしかしない家業の手伝い、高層マンションの広い上階に独り住む優雅な独身貴族の日々、これらがすべて反古になりかねないのだから。だからこそ、被告Tにとって、生死の境を彷徨う被害者のことも、その家族たちのことも、関心の埒外に置かねばならなかったし、自分の罪科を微罪にするべく事実に背を向け、西警察署の取り調べや聴取に専心、自らの保身のみを図ろうとしたのである。
となれば、これは未必の故意とさえいいうるような欺瞞行為であり、非道卑劣な行為といわざるをえないではないか。
刑事告訴にはじまり、こういった事実が明らかになるにおよんでは、初盆や一周忌に送られてきた供物を、どうして黙って受け取られよう。私が送り返すのも当然のことではないか。
あまつさえ許し難いのは、当該の民事訴訟において、ぬけぬけと無過失を主張したことである。その論拠を刑事事件の捜査未了であったことにおいているが、被告Tは、事故直後の府警西警察署の取り調べ段階からずっと一分の過失は認めており、いずれの段階においても過失ゼロを主張した形跡はどこにもない。それなのにこれをしも法廷戦術だなどというのなら、まったく低劣なことこのうえないと思うばかりだが、「原告等の気持を逆撫でする」行為とは、まさにこれ、そのものずばりではないか。
またさらに、被告Tは、本年の2月初旬、検察からの最終的呼び出しの要請を受けたものの、これを2月16日以降に延ばしてもらっている。医師免許国家試験が同月13日から3日間あり、これを受験するためだったのだが、この合格発表は3月29日である。しかるに、検察の刑事処分決定通知はそれより先の3月21日付、罰金30万円となった。
不起訴ならともかく、当該処分を受ければ、少なくとも数年間、受験資格はなくなる。実際の合否がどうであったか知る由もないが、発表前に処分が下った。仮にこの処分を厚労省管轄部署の知るところとなれば、合格していたとしても一定の留保期間がおかれる仕儀となるが、その結果については私のあずかり知るところではない。
この受験と合否発表の日程、そして検察の最終呼び出しから刑事処分の日程とが、綱渡りのように錯綜してあるのは、父Aの子可愛さ、将来を憂えての強い干渉と意志が関わった所為なのだろうけれど、あろうことか、父Aは、突然私に連絡をよこして、試験前日の2月12日に面会を求め、今年の医師試験を受験する旨を伝えたのである。
これはもう親の盲目的愚としかいいようもないが、先に処分ありきでは2.3年は受験も叶わず、処分の下る前に駆け込み受験といった料簡見え見えで、この受験が親としてよほど切望していたことにせよ、こういった事情を被害者家族の私に報告してくるにおよんでは、なにをか況んや。これまた被害者家族「逆撫で」の最たる一件である。

最後に繰り返し言う、被告Tは、傲岸不遜な利己主義の権化、狡知に長けた欺瞞の徒である。両親の恩寵の陰に隠れ、おのれの利害の外はまったく省みようとしない輩、幼い頃から親の前では、よい子できる子を演じつづけてきた虚飾に満ちた卑劣漢、人の心の欠落してしまったまるで未熟な大人なのだ。
一片たりともそうでないと主張するなら、私たち原告の前に自ら姿をあらわし、潔く法廷の場に立てばいい。その時が、人の人たる心を取り戻しうる、唯一大きな機会なのだから。
  平成22年7月30日  以下署名

―山頭火の一句― 行乞記再び -99
4月9日、申分ない晴、町内行乞、滞在、叶屋

今日はよく行乞した、こんなに辛抱強く家から家へと歩きまはつたことは近来めづらしい、お天気がよいと、身心もよいし、行乞相もよい、もつとも、あまりよすぎてもいけないが。-略-

花が咲いて留守が多い、牛が牛市へ曳かれてゆく、老人が若者に手をひかれて出歩く、子供は無論飛びまはつてゐる。
花、花、花だ、満目の花だ、歩々みな花だ、「見るところ花にあらざるはなし」「蝕目皆花」である。南国の春では、千紫万紅といふ漢語が、形容詞ではなくて実感だ。-略-

夕食後、春宵漫歩としやれる、伊万里も美しい町である、山も水も、しかし人はあまり美しくないやうである。
今夜の同宿は3人、一人は活動に、一人は浪花節にいつた、私は宿に残つて読書。
今夜もまた眠れないのでいろいろのラチもない事を考へる-酒好きは一切を酒に換算する、これが一合、いや、これで一杯やれる、等、等、等。
私はしよつちゆう胃腸を虐待する、だから、こんどのやうに胃腸が反逆するのはあたりまへだ。
聖人に夢なく凡人に夢は多すぎる、執着のないところに夢はない、夢は執着の同意語の一つだ、私はよく悪夢におそはれる、そして自分で自分の憎愛の念のはげしいのにおどろく。

※表題句に鍛冶屋の註、外に4句を記す

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Photo/伊萬里神社のトンテントン祭り

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Photo/秘窯の里大河内山のボシ灯ろうまつり


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2010年9月1日水曜日

腹底のしくしくいたむ大声で歩く

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―日々余話― もう、うんざり‥

とうとう8月も晦日というに記録破りの猛暑は続く。真夏日も熱帯夜も、94年の過去記録を各地で更新しているという。この分だと9月半ばあたりまで続きそうな気配さえして、ほとほとうんざり‥。

酷暑に、不況と円高、二重苦三重苦のわが列島だというのに、参院選をしくじった管直人に政局の嵐は避けられず、民主党はとうとう代表選突入というお粗末に、これまたうんざり‥。

ところで「うんざり」の「うん」は「倦む」からきているのだろうが、どうして「うんざり」と成ったのか、語源がよくわからない。広辞苑などではそんなことは教えてくれない。

で、netで検索してみたら、「倦むずあり」が略されて「うんざり」と変化してきた、という説が多く散見される。
しかし、この説だと、なんだか「倦むず」と「あり」の合成語にもみえ、動詞句のようなことになってしまうから不味いのではないか。「うんざり」とはどう見ても副詞であって、「うんざり+する」となって動詞句となるからだ。

もう一つ、この説とは似て非なるものが見つかった。Wiktionary-ウィクショナリー日本語版-によれば、古語の「うさ(当時の発音はunsa, unza)」+副詞語尾「り」が語源であると。名詞の「倦さ」に副詞語尾の「り」が接合されて副詞「うさり」が「うんざり」へと表記変化してきたとの説に、どうやら軍配があがりそうだ。

―山頭火の一句― 行乞記再び -98
4月8日、雨後の春景色はことさらに美しい、今日は花祭である、7年前の味取生活をしぜんに思ひだしてなつがしかつたことである。

今日は辛かつた、行乞したくないよりも行乞できないのを、むりやり行乞したのである、しなければならなかつたのである、先日来毎日毎日の食込で、文字通りその日ぐらしとなつてしまつたから詮方ない。

やつと2里歩いて此町へ着いた-途中二度上厠-、そして3時間ばかり行乞した、おかげで飯と屋根代だけは出来た、一浴したが一杯はやらない、此宿は清潔第一で、それがために客が却つて泊らないらしい、昨夜の宿とは雲泥の差だ、叶屋。

旅に病んで、つくづく練れてゐない自分、磨かれてゐない自分、そしてしかも天真を失ひ純情を無くした自分、野性味もなく修養価値もない自分を見出ださざるを得なかつた。

-略-、街上所見の一―これはまた、うどんやが硝子戸をはめてカフェー日輪となつてゐる、立看板に美々しく「スマートな女給、モダーンな設備、サーピス-セーピスぢやない-百パーセント」さぞさぞ非スマートな姐さんが非モダーなチヤブ台の間をよたよたすることだらう-カフエー全盛時代には山奥や浦辺にもカフエーと名だけつけたものがうようよしてゐた、駄菓子がカフエーベニスだつたりして、もつともそこは入川に臨んでゐたから、万更縁がないでもなかつたが-。

もう蕨を触れ歩く声が聞える、季節のうつりかはりの早いのには今更のやうに驚かされる。
同宿5人、私はひとりを守つて勉強した。

※表題句の外、2句を記す

楠久の町から2里ばかり歩いたというから、現伊万里市の中心部あたりだろう。

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Photo/楠久から伊万里市中心部へと向かう道中、東山代の明星桜

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Photo/伊万里市郊外の秘窯の里大川内山は、嘗ての鍋島藩御用窯だった

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Photo/大川内山の町並みにそびえ立つ巨大な焼きもの


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2010年8月19日木曜日

お地蔵さんもあたたかい涎かけ

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―表象の森― 古里の香り匂い立つ

「今月の」ならぬ、月もとっくに変わって、7月の購入本などのご紹介。
「100年前の女の子」は佳品。
私の父母の田舎は徳島県南部や高知県の山里で、北関東の片田舎とはまた趣は異なるが、古里の香り匂い立つ田舎暮しの片々が、中学を卒業する頃まで毎年のように夏休みに帰参しては過ごした田舎の光景や風情が喚起され、ひととき懐かしい郷愁に誘われては、心地よき時間を堪能させてもくれた。

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―先月-7月-の購入本―

・S.モアレム「迷惑な進化」NHK出版
副題に「病気の遺伝子はどこから来たのか」とあるように、適者生存として進化してきた生物としての人類が、糖尿病や皮膚がんなど、現代社会で「病気」として遺伝子資産をもてあましている様子が明快に説明される。

・船曳由美「100年前の女の子」講談社
関東平野、群馬県館林の北西、県境の矢場川を越えると栃木県の足利、二つの町のあいだに高松という小さな村があった。明治42-1909-年、そこに寺崎テイという女の子が生れた。里帰りしてテイを産んだ実母は、姑と折合いが悪かったか、生後1ヶ月のテイだけを嫁ぎ先へと送り返した。
実母に見捨てられるという数奇な運命を背負わされた乳飲み子の、健気で勝気で賢い女の子として成長を遂げていく姿が心に沁みるが、大正頃の風俗や習慣が詳細に活写されており、民俗学的な関心からもたのしく読める。

・内田百閒「百鬼園随筆」新潮文庫
漱石門下の異才・内田百閒の昭和8年に上梓されたという代表的随筆。

―図書館からの借本―
・C.レヴィ・ストロース「パロール・ドネ」講談社メチエ
40年代前半から70年代半ばまでの32年間を、コレージュ・ド・フランスで行った講義と研究指導の、その年々の詳細で生々しい報告書を一冊に束ねたのが本書「パロール・ドネ」だそうだ。訳者は中沢新一。


―山頭火の一句―
行乞記再び -97
4月7日、曇、憂鬱、倦怠、それでも途中行乞しつつ歩いた、3里あまり来たら、案外早く降り出した、大降りである、痔もいたむので、、見つかった此宿へ飛び込む、楠久、天草屋

-略-、今日は県界を越えた、長崎から佐賀へ。
どこも花ざかりである、杏、梨、桜もちらほら咲いてゐる、草花は道につづいてゐる、食べるだけの米と泊るだけの銭しかない、酒も飲めない、ハガキも買へない、雨の音を聴いてゐる外ない。

此宿はほんたうにわびしい、家も夜具も食物も、何もかも、―しかしそれがために私はしづかなおちついた一日一夜を送ることが出来た、相客はなし-そして電灯だけは明るい-家の人に遠慮はなし、2階1室を独占して、寝ても起きても自由だつた、かういう宿にめつたに泊れるものでない-よい意味に於ても悪い意味に於ても-。

よく雨の音を聴いた、いや雨を観じた、春雨よりも秋雨に近い感じだつた、蕭々として降る、しかしさすがにどこかしめやかなところがある、もうさくら-平仮名かう書くのがふさはしい-が咲きつつあるのに、この冷たさは困る。
雪中行乞で一皮だけ脱落したやうに、腹いたみで句境が一歩深入りしたやうに思ふ。自惚ではあるまいと信じる、先月来の句を推敲しながらかく感じないではゐられなかつた。

友の事がしきりに考へられる、S君、I君、R君、G君、H君、等、等、友としては得難い友ばかりである、肉縁は切つても切れないが、友情は水のやうに融けあふ、私は血よりも水を好いてゐる!

天井がないといふことは、予想以外に旅人をさびしがらせるものであつた。
-略-、今夜も寝つかれない、読んだり考へたりしてゐるうちに、とうとう一番鶏が鳴いた、あれを思ひ、これを考へる、行乞といふことについて一つの考察をまとめた。

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Photo/伊万里湾を望む楠久あたりの風景

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Photo/創業200年という松浦一酒造

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Photo/七福神の弁財天で名高い荒熊稲荷神社


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2010年8月17日火曜日

忘れようとするその顔の泣いている

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―表象の森― 神尾真由子のPaganiniを踊ってみる
先月の27日以来、なんと20日ぶりの言挙げ。
ブログを始めてかれこれ6年にもなるが、これほどペースダウンしたことはない。これといって特段の事情があった訳でもない。いくつか思いあたる節もあるが、どれも決定的というほどにはあらず、漫然と複合的に作用したのかな、というしかない。
で、今日はとりあえず、今週末予定の「夏の夜の舞と小宴」と題した
6年ぶりか、久しぶりに稽古場で行うイベントの紹介。

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残暑御見舞。
ちょいと沈黙しているあいだに早くも盆の月となってしまいました。
かといってけっして稽古を休んでいた訳じゃありません。
Eric Satieの曲なぞかけて踊ってみると、ぐんと動きの発想がひろがります。
それにしても神尾真由子というViolinistは凄いですネ。音楽は門外漢の身でとても講釈なぞ出来ませんが、Paganiniの「24 Caprici」に脱帽、驚き入ってます。機会があればぜひ生の演奏を聴いてみたいものです。
いつもは稽古でご厄介になっているアソカ学園ですが、Work Shopよろしく即興なぞご覧いただいて、一夕気楽な小宴を得たいと思いますが如何でしょうか。
但し席料1000円也をご喜捨願うことになりますが、お運び願えれば幸甚に存じます。
  初秋とはいえ猛暑の砌   四方館亭主/林田鉄

―山頭火の一句― 行乞記再び -96

4月6日、晴たり曇つたり、風が吹いて肌寒かつた、どうも腹工合がよくない、したがつて痔がよくない、気分が鬱いで、歩行も行乞もやれないのを、むりにここまで来た、行程わづかに2里、行乞1時間あまり、今福町、山代屋
死! 死を考へると、どきりとせずにはゐられない、生をあきらめ死をあきらめてゐないからだ、何のための出離ぞ、何のための行脚ぞ、ああ!

此宿はよい、昨夜の宿とはまた違った意味で、-飲食店だけでは、此不景気にはやってゆけないので安宿をはじめたものらしい、うどん一杯5銭で腹をあたためた、久しぶりのうどんだつた、おいしかつた。-略-
人間の生甲斐は味はふことにある、生きるとは味はふことだともいへよう、そして人間の幸は「なりきる」ことにある、乞食は乞食になりきれ、乞食になりきれなければ乞食の幸は味はへない、人間はその人間になりきるより外に彼の生き方はないのである。

金のある間は行乞などできるものでない、また行乞すべきものでもあるまい、私もとうとう無一物、いや無一文になつてしまつた、SさんGさんに約束した肌身の金もちびりちびり出してゐたら、いつのまにやら空つぽになつてしまつてゐる、これてせよい、これでよいのだ、明日からは本気で行乞しよう、まだまだ袈裟を質入してもに二三日は食べてゐられるが。-略-
今夜も寝つかれなくて、下らない事ばかり考へてゐた、数回目の厠に立つた時はもう5時に近かつた-昨夜は2時-。

※表題句には夢と註記あり、この句の外10句を記す

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Photo/鳴き砂で知られる、その名も所縁のぎぎが浜

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Photo/松浦党水軍の梶谷城趾

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Photo/隣町にある上志佐の棚田


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2010年7月27日火曜日

まつぱだかを太陽にのぞかれる

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―日々余話― iPadの一騒動

他人にお節介をするときは、端から相応の覚悟をしておくに若くはない。
先週の火曜から昨日の月曜まで、ちょうど1週間、このお節介から振り回される羽目になってしまった。

先日、車椅子の詩人こと畏友岸本康弘君宅を訪ねた際、「手の不自由な君でも、これならなんとか扱え、愉しめるのじゃないか」と、iPadを取り出しご披露に及んでみたら、とりわけ彼は「青空文庫」を快適に読めるのが気に入ったとみえて、「欲しい!」と一言、その一週間後には早々と手に入れていた。
手に入ったと聞きつけては、奨めた立場上、設定やアプリのダウンロードなど、彼には出来そうもない面倒なことは私がやってやらないと宝のもち腐れとなろうから、翌日また宝塚の彼宅へ駆けつけることに。

前日に、介護者が二人もついて、わざわざ心斎橋の直販店まで出向いて購い求めたものだが、担当した女性店員はずいぶん懇切丁寧に応接したらしく1時間半ばかりもかかったというに、付属品の電源コネクタとケーブルがない。小さなものだが、これがなければ充電も出来ないし、PCと接続してアプリなどのやりとりも出来ない、いわば命の綱。

これが騒動の発端で、問題の部品一つを無事手にするのに、メーカー側のカスタマーセンターの度重なる誤配などの所為もあって、結局は昨日、私自身が関係書類を持って直販店へ出向いて貰い受けるという始末で、1週間を要してようやく一件落着と相成った次第だが、この小さな部品、まだ私の手元にあるのだから、今日明日にも宝塚まで持参してやらなければならない。

なに、余計なお節介をするものじゃない、と悔いたりしてるわけじゃない。事に関わった以上は、それも相手が相手だけに、相当に面倒なことは百も承知のうえでのこと。ただ、ことさらハンデのある身が、文明の利器を自家薬籠中のもののごとく利用しようと望んでも、いかにも初歩的なトラブルといえど、いったんそれに巻き込まれてしまったら、複雑なマニュアルどおりのシステムが立ちはだかって、もうどうにも手の打ちようがないという現実が、いささか腹立たしくもあり哀しいのだ。そんな思いで、このドタバタ騒ぎも記憶にとどめるべしと書き留めておく。

―山頭火の一句― 行乞記再び -95
4月5日、花曇り、だんだん晴れてくる、心も重く足も重い、やうやく2里ほど歩いて2時間ばかり行乞する、そしてあんまり早いけれどここに泊る、松原の一軒家だ、屋号も松原屋、まだ電灯もついてゐない、しかし何となく野性的な親しみがある

自省一句か、自嘲一句か
  もう飲むまいカタミの酒杯を撫でてゐる –改作-

自戒三章もなかなか実行できないものであるが、ちつとも実行できないといふことではない、或る時は菩薩、或る時は鬼畜、それが畢竟人間だ。

今日歩いて、日本の風景-春はやつぱり美しすぎると感じた、木の芽も花も、空も海も。‥
風呂が沸いたといふので一番湯を貰ふ、小川の傍に杭を5.6本打ち込んでその間へ長州釜を挟んである、蓋なんかありやしない、藁筵が被せてある、-まつたく野風呂である、空の下で湯の中にをる感じ、なかなかよかつた、はいらうと思つたつてめつたにはいれない一浴だつた。

同宿二人、男は鮮人の飴屋さん-彼はなかなか深切だつた、私に飴の一塊をくれたほど-、女は珍重に値する中年の醜女、しかも二人は真昼間隣室の寝床の中でふざけちらしてゐる、彼等にも春は来たのだ、恋があるのだ、彼等に祝福あれ。

今夜もたびたび厠へ行つた、しぼり腹を持ち歩いてゐるやうなものだ、2.3日断食絶酒して、水を飲んで寝てゐると快くなるのだが、それがなかなか出来ない!

層雲4月号所戴、井師が扉の言葉「落ちる」を読んで思ひついたが-落ちるがままに落ちるのにも三種ある、一はナゲヤリ-捨鉢気分-、二はアキラメ-消極的安心-、三はサトリ-自性徹見-である。
世間師には、ただ食べて寝るだけの人生しかない!

※表題句の外、改作も含め12句を記す

御厨から2里ばかりの松原とは、唐津街道の調川-つきのかわ-町近くか。

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Photo/松浦市調川港の全景

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Photo/松浦市中心部の公園にある松浦党水軍兜の碑


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