2010年9月4日土曜日

夫婦仲よく鉄うつやとんかん

Santouka081130048

―日々余話― Soulful Days-40- 三回忌に迎える山場

午後1時前、地下鉄淀屋橋の駅から地上にあがるとうだるような暑さ。堂島の川風も湿気をいっぱいに含んでなんの慰めにもならない。裁判所近くの弁護士事務所までの5.6分の距離も、右に左にと、わずかなビルの日陰を求めながら歩く。

明日はRYOUKOの三回忌の法要を内々に執り行うことになっているが、その前日に弁護士と会うことになったのは、この13日に控えた公判期日の打合せのためだ。7月30日の前回公判で裁判官からの提案で、いわば和解勧告へ向けた布石としてだろうが、被告と原告双方が直に向き合い話し合う機会を得たいと、次の公判期日が設定されたのである。事故から丸2年、事故究明に端を発した刑事・民事双方の訴訟も、刑事は5月に決着をみ、民事もまた解決へと急転していくその山場を向かえようとしているわけだが、その日があろうことか、命日の前日というのはなんという符号か。それが決められた際に私は同席していたのだが、思わずRYOUKOの面影が脳裏を走り、小さく呻ってしまったものだった。

さかのぼって、5月21日付、われわれは被告Tに対し「請求の拡張申立」を行っていた。
被告側がわれわれの損害賠償請求に対し冒頭より無過失を主張したり、医師免許国家試験受験の欠格事由にあたる罰金刑となるのは必定であったにもかかわらず、どさくさに紛れるかのように2月に本年度試験を受験したりといった行為が、まったく事故責任を省みないものであり、また一片の反省の色なく、被害者心情を著しく傷つけるものとしての申立てであり、損害賠償請求に加えての慰謝料請求といったものである。
この申し立ての際に付した「T.K宛慰謝料請求のために」と題した陳述書は、その殆どの部分が先の「述べられなかった意見陳述草稿」に重なる。

この申立てに対し、6月25日付、被告代理人から答弁書が出されてきたのだが、その内容がまたこちらの心情をいたく逆撫でするものだった。よって私は反論の反論のため、またまた長い文書を書く仕儀となってしまった。先の文書が、自身のための、いわば総括的なものであっただけに、どうにも腰が重かったのだが、そうもいっておられず、無理強いにのようになんとかモノしたのが以下の文書で、7月30日付、裁判所に提出したものである。

 陳 述 書
平成21年(ワ)第****号 交通事故による損害賠償請求事件
大阪地方裁判所 第15民事部**係 殿

平成22年6月25日付、
被告代理人が提出した「請求の拡張申立に対する答弁」における、
主に「第3-被告Tの主張」に関して

1について-
事故当夜における対面は、事故当事者である両者-MとT-からともに当事者である旨の挨拶を受けたものであり、この一言二言の自己紹介的な挨拶を謝罪と数えあげるのは、事故直後の救急車で運ばれる時より被害者RYOUKOが意識不明の重篤にあったことを認識していなかったわけでもなかろうに、事態の深刻さをあまりにも軽んじた言い分である。
また、この折、Tに付き添ってきた婦人が母親であることは、名告りも受けていないし、まったく接触もしていないのだから、私としては母親と知る由もない。
よって、この両者から謝罪の言葉を頂戴したという主張は、まったくもって人を喰った話というしかない。

以下、2から5について-
まず反証資料として、
1.平成20年9月23日付、私からT.K宛送付した書面の写し、
2.同9月30日付発信の、T親子から送付された返書の写し
3.同10月2日付、私からT.K及び父Aに送付した書面の写し
4.同10月10日付発信の、T親子から送付された返書の写し
の4つの書面を付したい。
とくに、10月2日付の私からの書面にあるように、被害者RYOUKOが生死の境にあって集中治療室にある以上、なによりもその家族と接触を図り、それが被告らにとってどんなに耐え難いことであろうとも、直々に謝意を伝え、相手の心の傷みや苦しみを正面から受け止めようとするのが喫緊のことであり、人倫としての務めであること。
その喫緊の人倫の務めを怠りながら、被害者家族にまったく見えないところで、回復祈願をし、さらには冥福を祈り供養をしたとて、それは何のための誰がための祈願であり供養だろうか、なによりも自分たち自身のため、自分たち自身の心の呵責を癒すためのものでしかなく、いわば自慰行為にも等しいものだということであり、被告及びその両親は、私からの書面に発したこれら4つの書面のやりとりまでは、RYOUKOの死という犠牲を招いてしまった事故の、この悲劇的な事態にまったく正面から向き合おうとせず、逃避行を決め込んでしまっていたのである。自分たちは自分たちなりに回復祈願を、あるいは供養をというのは、被害者及び被害者家族の沈痛な嘆きや心情を無視した、あまりに偽善、あまりに身勝手な善人面の仮面というしかない。

6について-
まず注意を喚起しておきたいことは、10月9日の午前、被告Tとその両親は、前触れもなく原告林田育代宅を訪ね、不在であったためメモを残しているというのは確かであるが、被告らのこの行為が、私の再度の書面に対し返信-10月10日付発信-する前日のことだということに留意してもらいたい。
被告側からの返信はすべて被告Tの父Aが書いたものであることは一目瞭然であるが、父Aは、私からの二度目の書面を読んで返答に窮したと容易に察せられる。そこでいわば局面打開の実力行使に出た、私とは別居してきた被害者RYOUKOの位牌のある場所即ち原告育代宅を突然訪ね、直々にお参りをという行為にでたのである。ところが折悪しく不在であったため名刺のメモを残したということだ。
そして、その日のうちに、私宛の返信を書き、翌日投函しているわけだが、その朝の原告育代宅訪問については、近日中に参りたいと思いますと記すのみで、不在だったものの既に訪問してみたことはなぜだか伏せている。
同じ9日の午後、原告育代から私に電話があった。「私が留守中でよかった、もし居たとしたら、今の自分にはとても冷静に応接など出来るはずもない、自分自身なにを口走るか、考えるさえ怖い。だから来ないようにして欲しい。」とそんな内容だった。
そこで私は夕刻になってから、被告Tの携帯に連絡をした。電話といえばこの携帯しか知らなかったからだ。単刀直入、「父親に電話をするように」と。
折り返し、父Aからの電話に、「勝手に実家-原告育代宅-を訪ねるようなことは、今後けっしてしてくれるな。本人は、突然またいつ来られるかと思えば、それだけで胸苦しくさえなると訴えている。何をするにも私を通してもらいたい。いずれ受け容れられるようなときがきたら、私から連絡もしよう。」といった旨を伝えたにすぎない。

7.8について-
このたびの請求の拡張申立における書面において、私自身記したように、交通事故とは偶然に満ちたものであり、運転者双方の些細なミスによって生じるものであり、誰も故意に起こすものではない。ならばその僅かな不注意で、人一人を死に至らしめるというとんでもない事態を招いたとすれば、その原因となった事故当事者たるもの、犠牲者及びその家族とはまた別次の責めや傷みを負わざるをえないと容易に察せられる。だから相手を恨んだり責めたりはすまい、しないと自分を律してきたつもりである。
そのことは現在に至るも同じで、今も被告Tを恨んだりはしていない。なんで事故なんか起こしたんだなどと責めるつもりもない。そういった責める思いと、誰にも起こりうることであってみれば、責めるのは可哀相だ不憫だと、ジレンマに陥らざるをえないのはむしろ被告Tの両親のほうだろう。
そんなことは分かりすぎるからこそ、私は、被告T自身の謝罪に対してというよりは、父Aの子を思う真摯な謝罪に対して、一定の受容をしてきたのである。
現に被告T代理人によって提出された答弁書全容からも容易に覗えることは、被告T自身による一連の謝罪行為というよりは、どこまでも父Aが主体となった謝罪であり、私とのさまざまの応接である。
もう30歳にもなろうかという立派な成年男子でありながら、被告Tが自ら主体的に、私に向かって、はっきりと物を言い、また何かを為したということはなく、親に伴われて、借りてきた猫のごとく、そこにただ居合わせてきただけである。
それでも私は、母親である原告育代や、被害者のたった一人の弟の、被告Tへの心情的な受け容れがたさを知りつつ、私自身が彼らになりかわり、批判は批判としつつ無念は無念としつつも、受け容れていかざるをえないと考え、応接してきたのである。
それが11月8日の父Aと被告T両者との一時間余の対面であり、12月25日における私のみの立会いでの故人へのお参りの許容であった。

9.10について-
たしかに、このまま推移すれば、時日はかかったにせよ原告育代や弟の、被告Tに対する心情もやがては和らいでいった筈である。
ところが、180°の急転を見せるのは、年が明けて1月30日、私と原告育代が検察庁の呼び出しに応じて、初めて担当検事の西本副検事に会い、事故原因に関する概況や、M並びにT被告への刑事処分に関する検察判断等を聞かされてからである。
とりわけ、被告Tが、元医学生であったこと、さらには事故の反省から医師免許国家試験をめざそうとしている有意の青年であるから不起訴処分に、という温情的判断が示されたことは、私にとってまさに驚天動地の出来事だったのだ。
元医学生、それも大阪市立大学の医学部卒業である。さすれば世間知はともかく、知識もあれば知恵も人並み以上にある。その被告Tの、事故当初の被害者及び被害者家族への無関心ぶりは一体なんだというのか。そして私からの怒りの書面を受けてからも、被害者家族に対して、いっさい自らは行動を起こさず、直かに物を言おうとせず、親の傍らに隠れるようにしてその場をやり過ごしてきた彼という人間は、一体どういう恥知らずなのか。
これは被告Tの高等戦術なのだ、彼は親の前でもどこまでもよい子を装い、もちろん私の前でもそうして演技している、そんな仮面を被った狡知に長けた人間、それが被告Tの本性なのだと、私が受け取ったのは事の成り行きからして必然だったのである。
それからの私は、自ら事故状況を詳しく知らねばならぬと、俄然行動的になった。
まず、私の方から事故当事者Mに連絡を取り、事故状況について説明を求めた。被告Tの「もらい事故」なる怪しからぬ噴飯物の発言は、この席でMから聞かされた話である。これが翌日の1月31日。
Mの雇用者、MKタクシーには、ドライブレコーダーのコピーを是非見たいと要請した。その傍ら、2月10日には、被告Tを刑事告訴した。
待望のドライブレコーダーをようやく手にしたのは3月13日、なんどもなんども繰り返し見た。記録画像は、1/2と1/5のスローモーションでも見られるようになっている。
M車が右折行為にさしかかろうとする、事故より6秒ほど前から対向車線を軽四のトラックが、2.5秒ほどかけてゆっくりと広い交差点を通り過ぎているが、この車の前照灯は鮮明に映っている。また、事故直後の対向車線上には、赤信号に変わって信号待ちで停止している乗用車の前照灯も、路面を照らしているのがよくわかる。
軽四トラックが通り過ぎてから、M車が右折から直進へと移行しつつあるが、この前照灯による路面変化もスローモーション画像なら見て取れる。
ところが、70km/h以上で直進してきたという被告T車の前照灯による路面変化は、直交してくる横合いからの光だからはっきりと映るはずなのに、スローモーションでさえもまったく見られないのである。
そしてまた、ドライブレコーダーに基づく調査とされる甲8号証の8「実況見分調書」における、事故発生3秒前の被告T車の想定位置写真や同じく2秒前の位置写真、この場合の仮想T車は前照灯を灯したものであるが、これを見れば、少なくとも2秒前において、MがT車を視認しないはずはないとするのが至当であるのに、MがT車にまったく気づきえなかったのは、T車の無灯火運転を証拠づけるものである。
ドライブレコーダーをごくニュートラルな眼で、素直に見る限り、これが事実である。被告T車は無灯火であったとしかいいようがない、というのが記録画像の明らかに語るところだ。
ところが、大阪府警科捜研は、ドライブレコーダーの画像は高精度ではないからと、あえて検証対象から外した。そして、この記録の機械的構造から起きるタイムラグを微修正しながら、詳細なタイムレコーダーのみを作り上げ、事故原因の分析対象とした。それが6月28日付、被告T側から提出された準備書面2が根拠にもしている甲8号証7の鑑定書である。
これは、はっきりいってインチキだ。科捜研は府警西警察署が作成した事故の概況及び調書等にまったく矛盾しない報告書を作るべく腐心しただけの苦心の作だ。畢竟それは検察の意志でもあったろう。
またご丁寧なことに、M被告の刑事裁判では、公判の法廷において、このドライブレコーダーをスローモーションではなく実際の速度で液晶画面に映し出している。それも裁判官の要請で二度までも。しかし、ほんの10秒ほどの出来事を実際のスピードで法廷の画面に映し出し、これを遠目に眺めてみたところで、詳細のほどは知れようもない。いかにも法廷では画像のほうもちゃんと実況見分したよといわんばかりで、まるでセレモニーの具にされたようなものだ。
先に記したように、M車の右折行為は、軽四トラックが交差点内を進行しはじめるあたりから始まっており、いよいよ右折から直進へと移るまでに5秒ほどかかっているというまことにゆっくりとしたものである。その間、被告Tにとって、M車の姿は見えずとも前照灯の移ろいは、前方を注視していれば3秒も4秒も前から気づいて当然のものだ。このことからも、被告Tは無灯火であったばかりか、2秒あまりの脇見運転までもしていたとしか考えられないのである。
これら無灯火についても脇見についても、被告Tにとっては消し去りようのない事実であり記憶である。彼は、事故当初より、この事実を隠蔽し通さねばならなかった。もし自分の過失が大となれば、一人息子として両親から庇護され保証されてきた手厚いまでの恩恵、医者になるよりもまた留年してまでも趣味を活かしたウェイクボードのプロの道、申し訳程度にしたい時出来る時にしかしない家業の手伝い、高層マンションの広い上階に独り住む優雅な独身貴族の日々、これらがすべて反古になりかねないのだから。だからこそ、被告Tにとって、生死の境を彷徨う被害者のことも、その家族たちのことも、関心の埒外に置かねばならなかったし、自分の罪科を微罪にするべく事実に背を向け、西警察署の取り調べや聴取に専心、自らの保身のみを図ろうとしたのである。
となれば、これは未必の故意とさえいいうるような欺瞞行為であり、非道卑劣な行為といわざるをえないではないか。
刑事告訴にはじまり、こういった事実が明らかになるにおよんでは、初盆や一周忌に送られてきた供物を、どうして黙って受け取られよう。私が送り返すのも当然のことではないか。
あまつさえ許し難いのは、当該の民事訴訟において、ぬけぬけと無過失を主張したことである。その論拠を刑事事件の捜査未了であったことにおいているが、被告Tは、事故直後の府警西警察署の取り調べ段階からずっと一分の過失は認めており、いずれの段階においても過失ゼロを主張した形跡はどこにもない。それなのにこれをしも法廷戦術だなどというのなら、まったく低劣なことこのうえないと思うばかりだが、「原告等の気持を逆撫でする」行為とは、まさにこれ、そのものずばりではないか。
またさらに、被告Tは、本年の2月初旬、検察からの最終的呼び出しの要請を受けたものの、これを2月16日以降に延ばしてもらっている。医師免許国家試験が同月13日から3日間あり、これを受験するためだったのだが、この合格発表は3月29日である。しかるに、検察の刑事処分決定通知はそれより先の3月21日付、罰金30万円となった。
不起訴ならともかく、当該処分を受ければ、少なくとも数年間、受験資格はなくなる。実際の合否がどうであったか知る由もないが、発表前に処分が下った。仮にこの処分を厚労省管轄部署の知るところとなれば、合格していたとしても一定の留保期間がおかれる仕儀となるが、その結果については私のあずかり知るところではない。
この受験と合否発表の日程、そして検察の最終呼び出しから刑事処分の日程とが、綱渡りのように錯綜してあるのは、父Aの子可愛さ、将来を憂えての強い干渉と意志が関わった所為なのだろうけれど、あろうことか、父Aは、突然私に連絡をよこして、試験前日の2月12日に面会を求め、今年の医師試験を受験する旨を伝えたのである。
これはもう親の盲目的愚としかいいようもないが、先に処分ありきでは2.3年は受験も叶わず、処分の下る前に駆け込み受験といった料簡見え見えで、この受験が親としてよほど切望していたことにせよ、こういった事情を被害者家族の私に報告してくるにおよんでは、なにをか況んや。これまた被害者家族「逆撫で」の最たる一件である。

最後に繰り返し言う、被告Tは、傲岸不遜な利己主義の権化、狡知に長けた欺瞞の徒である。両親の恩寵の陰に隠れ、おのれの利害の外はまったく省みようとしない輩、幼い頃から親の前では、よい子できる子を演じつづけてきた虚飾に満ちた卑劣漢、人の心の欠落してしまったまるで未熟な大人なのだ。
一片たりともそうでないと主張するなら、私たち原告の前に自ら姿をあらわし、潔く法廷の場に立てばいい。その時が、人の人たる心を取り戻しうる、唯一大きな機会なのだから。
  平成22年7月30日  以下署名

―山頭火の一句― 行乞記再び -99
4月9日、申分ない晴、町内行乞、滞在、叶屋

今日はよく行乞した、こんなに辛抱強く家から家へと歩きまはつたことは近来めづらしい、お天気がよいと、身心もよいし、行乞相もよい、もつとも、あまりよすぎてもいけないが。-略-

花が咲いて留守が多い、牛が牛市へ曳かれてゆく、老人が若者に手をひかれて出歩く、子供は無論飛びまはつてゐる。
花、花、花だ、満目の花だ、歩々みな花だ、「見るところ花にあらざるはなし」「蝕目皆花」である。南国の春では、千紫万紅といふ漢語が、形容詞ではなくて実感だ。-略-

夕食後、春宵漫歩としやれる、伊万里も美しい町である、山も水も、しかし人はあまり美しくないやうである。
今夜の同宿は3人、一人は活動に、一人は浪花節にいつた、私は宿に残つて読書。
今夜もまた眠れないのでいろいろのラチもない事を考へる-酒好きは一切を酒に換算する、これが一合、いや、これで一杯やれる、等、等、等。
私はしよつちゆう胃腸を虐待する、だから、こんどのやうに胃腸が反逆するのはあたりまへだ。
聖人に夢なく凡人に夢は多すぎる、執着のないところに夢はない、夢は執着の同意語の一つだ、私はよく悪夢におそはれる、そして自分で自分の憎愛の念のはげしいのにおどろく。

※表題句に鍛冶屋の註、外に4句を記す

09031
Photo/伊萬里神社のトンテントン祭り

09032
Photo/秘窯の里大河内山のボシ灯ろうまつり


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