2010年9月15日水曜日

朝ざくらまぶしく石をきざむや

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 ―日々余話― Soulful Days-41- 猿芝居は幕切れ近く‥

9日の夜、障害者の作業所に勤める息子のDaisukeに、やはり福祉関係に従事する若い友人を引き合わせ、三人で2時間半ほど語り合った。まるでタイプの異なる二人だが、年も近いし、意義のある出会いになればと思ってのことだった。
そのお喋りを終えて帰宅したのはもう日も変わろうかというころだったが、そこではたと気がついた。そうだ今日は9月9日、RYOUKOの、あの事故が、起こった夜‥。
それから朝まで、とうとう眠れなかった。いつもは居間の片隅に立てかけてあるままの写真を、その左右に置かれた父と母の写真にもお出まし願い、三人を眼の前に、ただとりとめもなく時を過ごしたのだった。
もう大詰めは近い。これまでいろいろと手を盡してはきたものの、やればやるほどに、却って虚しさばかりを大きくさせてきたような気がする。冷静に考えれば然もあろうと思われるのだが、そのことがまた気鬱の種となる‥。
13日午前10時45分、大阪地裁の9F、細長い楕円のテーブルを挟んで、私とIkuyoはT.Kと対峙した。私にとっては一昨年の12月以来、Ikuyoにとってはまったく初対面の青年は、ウェイクボードのプロ生活にはすでに見切りをつけこれからは研究者の道に歩み出そうとしているのか、日焼けした顔以外、端正に背広を着込んだ姿からはマリンスポーツに興じてきた若者の匂いはすっかりぬけているようにも見えた。
裁判官から提案要請され、裁判官と書記官、双方の弁護士らも同席、囲んだこのテーブルが調停の場と呼ぶには相応しくはないだろう、いわば和解協議に入る前のセレモニー、通過儀礼にはちがいないが、この場において裁判官の抱く心証が、これからどんな和解勧告案を出すことになるのか、その決め手になるのだけは確かだろう。
予定の1時間をこえて70分あまりか、話はさまざまに飛んで散漫に過ぎたようにもみえ、私を苛立たせる場面もいくつかあったが、事故の事実関係の疑惑や、この青年の利己的な不実も垣間見えたのではないかとも思われ、訴訟解決のためにはきわめて有意義なものではあったろう。
最後に、裁判官は、双方の弁護士たちに、次なる和解協議の場を17日の金曜日と決め、この場を閉じた。
これから先、もうこれ以上、私が関与しうることはない、なにもない。否応もなく幕は降りる。
こんな間の抜けたようなクライマックスでいいのか、こんな埒もない猿芝居を見たかったのかおまえは‥。
裁判所から家に戻った私は、空きっ腹に茶漬けをかきこんで、宇治にある黄檗山萬福寺に行くべく、ひとり車を走らせた。この23日にあるイベントに絡んで韋駄天像を拝顔してこようというものだが、そんな理由よりただ気晴らしがしたかっただけかもしれない。嘗て二度ばかり訪れてはいるのだが、布袋さんの背後に居るとてもハンサムな韋駄天像にはうかつにも気がつかなかったか、記憶にないので、三度目の正直でご対面となった。

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Photo/萬福寺の天王殿、布袋さんの背後にある韋駄天立像

とっぷりと暮れた帰路、運転しながら私は、それまで散り々々になっていた思いが、なんだか少しずつ凝り固まってくるような、そんな感じがしていた。どうやらいくらかは気分転換にはなったようだった。
夜中になってから、依頼者としてはずいぶん我が儘で世話のやけるだろう私に、この2年根気よく付合ってくれているK弁護士宛に手紙を書き出した。

K弁護士 様
昨日はどうもお疲れさまでした。
明けて今日はRYOUKOの3回目の命日です。
いわば二年間の総決算、解決への通過儀礼としての山場が、命日の前日という因縁めいた符号ではありましたが、そのT.Kとの対面、対決を終えてみて、あらかじめ半ば予測されたこととはいえ、なんだか徒労感と虚しさばかりがつのるといった、そんなところです。

7月の公判期日の折にいただいた書類、証拠説明書の一覧を見ていてふと気がついたことがあり、この件につきご意見も聞かねばと思っていたのですが、先日の打合せのときも、また昨日も切り出す機会を得ぬまま打ち過ぎてしまいましたので、以下遅まきながら書面にしております。

いまさらのことではありますが、疑義を挟まねばならない問題は、Mの刑事裁判で検察側から出された4つの実況見分調書-甲8号証の3,4,5,8-と鑑定書-甲8号証7における作成日の不思議です。
甲8号証3は、事故のその夜、直後の現場検証から作成された実況見分調書でしょう。甲8号証4は、二日後の9月11日、MKタクシー北営業所で甲乙両者の車の破損状態を詳細に調べておりますが、それに基づいて作成されたものと思われます。よってこれら二点にはなんの問題はありません。
次に甲8号証5、この内容はドライブレコーダーの映像に関する調査とあり、作成日がH21.2.18となっています。これはもうお笑い種としかいいようがありませんが、初めに担当したN検事に呼び出され、Ikuyoと私が初めて地検に行ったのがH21.1.30で、この席で医学生だったことを知らされるのですが、それは措いて、その席で私どもはT.Kの過失に対する疑義を問うておりますし、さらに、私どもがT.Kに対する刑事告訴の書面を検察に提出したのが2月10日付でしたから、これに対処すべくまるで付焼刃のように急遽西署に作成させたものということになりますか。
そして、ドライブレコーダーをやっと手に入れた私どもが、これを証拠として書面とともに検察に提出しに行ったのが4月9日でしたが、このときN検事は書面のみ受取り、記録画像はウィルスの問題もあり受け取れぬと拒否するわけです。この席で、ドライブレコーダーについてもこれこの通りちゃんと検証していると言いつつ、私どもに件の調書の静止画像などをご披露なさるわけです。まるでその実況見分調書が送検の初めから付されてきた証拠資料であったかの如くに。これでは姑息なスタンドプレイそのものではありませんか、まったくふざけた話です。

さて、問題なのは、甲8号証8です。この作成日がH21.9.17とあります。そして甲8号証7のドライブレコーダーによる鑑定書の作成日がなんとH22.3.26とずいぶん開いています。
鑑定書はドライブレコーダーの機械的不備から起こるタイムラグを修正したうえで詳細なタイムレコードを作成したもののはずです。甲8号証8の実況見分調書は、検察の意を受けてあらためて、その詳細なタイムレコードに基づき、事故車とは別の用意された車で実況見分し作成されたものですから、実際には甲8号証7の鑑定書の原形となっている鑑定書が存在し、それは当然、甲8号証8の作成日以前に作成されたものであるはずです。本来なら、その原形である鑑定書と甲8号証8の実況見分調書がセットになって証拠として提出されるのが自然な形でしょう。ところが原形の鑑定書にどんな不具合があったものか、わざわざ作り直させているわけです。しかも、作成日の3月26日といえば、森田の起訴とT.Kの略式起訴の決定通知がともに3月19日付で、その後裁判所へ提出するべき証拠資料の精査段階でなんらか補正する必要があり作成されたものらしいということになります。
しかし、さきの甲8号証5の付焼刃的作成も、この鑑定書の補正作成も、大切な事実関係を意図的に歪めるようなそんな問題ではないでしょう。取るに足らないことなのだろうと推測します。

私が問題にしたいのは、甲8号証7の実況見分調書が昨年9月17日付で作成されたものであり、その作成が甲8号証3及4と同様に西署でなされ、その担当者もすべて同じT何某であったということです。これはお確かめください。どうやらT何某は科学捜査班の一員であり且つ西署に配属されている署員であったのではないかと推量されます。
N副検事から担当を引継いだO副検事が私どもに強く印象づけようとしたのは、ドライブレコーダーを精査したうえで、あらためて行った実況見分であり、その実施された時期も、ごく直近、早くとも昨年の12月あるいは今年に入った1月中のことかと推量されるような物言いだったのですが、なんのことはない昨年9月段階でとっくに出来ていたものだった。それも私どもは当然、当初よりこの事件の捜査を担当してきた者たちとはまったく別の手によってなされたものとばかり受けとめていたのですが、同一人の手になるものだったということです。
こんなことでは、当初からの実況見分調書に事実関係を補完し強固にするものとはなっても、そこから矛楯するような新事実など出てこようはずはありません。
「府警から再捜査の報告が上がってきたので、11月中あるいは遅くとも12月には、審判を下せるだろう」と、私がO副検事から電話で報告を受けたのは昨年の11月9日でした。ところが待てど暮らせど、年が明けてもなんの音沙汰もありません。結局のところ、次に連絡を受けたのは3月に入って10日でした。「審理報告のため15日に来られたし」と。
それより先、T.Kが呼出しに応じて出頭したのが受験を了えた2月16日、この日彼は略式起訴を受容れ最終調書に署名押印したのでしょう。
そしてMの出頭が3月9日、公判請求する旨を伝えられ、同意書に署名しています。
11月の初めに再捜査書類の上がってきたものが、なぜ年度末の3月に至るまで、4ヶ月も徒らに処分決定を待たねばならなかったのか、私としてはやはり奇異に感じざるを得ません。
Kさんには、「それは邪推に過ぎましょう」と一笑に付されるかもしれませんが、どうしても私は、ここでT.Kの医師免許受験日程と、このタイムラグを重ねてみたくなります。
試験実施日が、2月13、14、15日の三日間、
合格発表が、3月29日、
試験の応募期間は、厚労省発表の23年度実施分が、22年11月15日から12月3日迄となっており、ほぼ同時期、昨年の11月中旬から12月初旬の間だったでしょう。
11月には上がっていた再捜査資料を、3月の年度内ぎりぎりまで引っ張って、処分決定をし、それぞれ略式起訴と起訴の手続きを完了させる、はたしてここには作為の一片もなかったのか。
T.Kには格別の情実がはたらいている、それをはたらかせる力がT.Kサイドにはある、ということに思い到らざるをえないのです、結局は。
重ねてなんども言いますが、私は在日にはなんの偏見も持っていません。もちろん日本の問題、歴史の負の遺産としての在日問題には、私なりに相応の関心はあります。この年になって偶々集英社新書の小熊英二・姜尚中編「在日一世の記憶」を読んでおったくらいですから。これはちょっとした大部の著です。52人もの在日一世たちひとりひとりの貴重な語りですから、ずしりとずいぶん重いものでした。

最後に、昨日も言いましたように、やはり私としては、これ以上法廷での証言などを求める気は毛頭ありませんが、まったく個人的に、しかし事の本質において問題解決のために、MとT.Kと私と三者で、ドライブレコーダーを見ることが出来るか、と。
最終的に事実関係はどうでもよいことなのです、RYOUKOにだって落ち度はあるのです、私はMに確かめています、あの交差点で右折することを彼女が求めたのだということ、彼女がシートベルトをしていなかったことを。
Kさんは、私刑のようだと言われましたが、私はそうは思いません。彼が昨日どれほどの覚悟をもってあの場に現れたかはよく判りませんが、これまでのように逃げ回らないで、一身をもって事にあたれ、ということです。それだけの気概を示せる場面は、では他にどんな場面が想定できるのでしょうか。
Ikuyoは、息子のDaisukeとともに迎えるから、T.K独りでお参りにお出でなさい、と言いましたが、これはこれでよく判ります。赦しの論理です。あえていえばカタルシス=浄化の論理です。
墓前にあるいは仏前に、互いに涙して洗い清めましょう、これからもずっと怨みを抱きながら生きることほど悲しくも過酷なことはないのですから。
   2010.9.14  林田鉄 拝

―山頭火の一句― 行乞記再び -102
4月12日、雨、滞在休養、ゆつたりと一日一夜をあじはつた

久しぶりに朝酒を味ふ、これも緑平老の供養である、ありがたしともありがたし。
同宿は5人、みんな気軽な人々である、四方山話、私も一杯機嫌でおしやべりをした。
しとしとと降る、まつたく春雨だ、その音に聴き入りながらちびりちびりと飲む、水烏賊1尾5銭、生卵2個5銭、酒2合15銭の散在だ、うれしかつた。

終日句稿整理、私にはまだ自選の自信がない、しかし句集だけは出さなければならない、句集が出せなければ、草庵を結ぶことが出来ないのである。

今夜の同宿は5人、その中に嫌な男がゐるので、私は彼等のグループから離れてゐた、彼は妙に高慢ちきで、人の揚げ足を取らう取らうとしてゐる、みんなが表面敬意を見せて内心では軽蔑してゐるのに気がつかないで、駄法螺を吹いて威張つてゐる、よく見る型の一種だが、私の最も好かない型である、彼にひきかへて、鍋釜蓋さんは愉快な男だ、いふ事する事が愛嬌たつぷりである、お遍路婆さんも面白い、元気で朗らかだ、遊芸夫婦-夫は尺八、妻は尼-にも好意が持てた、ここで思ひついたのだが、出来合の旅人夫婦は、たいがい、女房の方がずつと年上だ、そして妻権がなかなか強い、彼は彼女の若い燕、いや鴉でもあらう。

夜は読書、鉄眼禅師法語はありがたい。

※表題句は4/10の句、句作なし

佐用姫の伝承をもつ風光明媚なこの地は、山頭火にとってひととき安寧を与えてくれるものであったのだろうか。

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Photo/領巾振山-鏡山-から見渡す虹ノ松原

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Photo/領巾振山の頂きにある鏡山神社

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Photo/鏡山の道しるべとなる石碑


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