2010年10月29日金曜日

びつしよりぬれてゆくところがない

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―日々余話― 都心のなかの古民家たち

大阪で育ち、この年までずっと大阪で過ごしてきながら、不明にもつい最近になってその存在を知ることになったのが、服部緑地公園の一角にある「日本民家集落博物館」。そのきっかけはなんのことはない、小3となった幼な児の、秋の遠足地だったからなのだが‥。

飛騨白川郷の古民家を移築保存したのを皮切りに、民家集落の博物館として誕生したのが、1956-S31-年だというからすでに半世紀あまり、今でこそかように移築保存された古民家集落群は全国各地にみられるが、いわばその先鞭をつけたものといえようか。

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すでに今月初旬の遠足で見学体験済みの先輩たる幼な児と連れ立って、休日の午後を過ごそうと出かけたのは先週の土曜-23日-だった。
以前は辺り一帯が竹林だったのだろう、1万坪あまりの起伏のある敷地内に、北は岩手、南部の曲家から、南は鹿児島、奄美大島の高倉まで、12棟の民家が点在する。これらのほとんどが昭和30年代に移築されているそうな。
ゆっくり観て廻ればたっぷり2時間は要するのだろうが、子どもが退屈気味に先を急かすのでそうもいかない。それでも1時間半くらいは過ごしたか、ちょっとした心の洗濯にはなった気がする。

―山頭火の一句― 行乞記再び -113
4月23日、雨、風、行程3里、小倉市、三角屋

わざと風雨の中を歩いた、先日来とかく安易になつた気持を払拭しようといふ殊勝な心がけからである。
小倉まで来て、放送居士、ではない、放送局下の惣三居士を訪ねる、初相見にして始中終見、よばれて、しやべつて、いただいて、それから。-

酔うた、酔うた、エロ街散歩、何とぬかるみの変態的興味、シキシマを一本づつ彼女達に供養した。
廃棄工場-発電所-、そこにはデカダン的で男性的なものがあつた、なかなか句にならない。
寝十方花庵、月庵-惣三居士の面目。
雲水悠々として去来に任す、-さういふ境界に入りたい。

  雨なれば雨をあゆむ
此一句-俳句のつもりではありません-を四有三さんの奥さんに呈す。

  JOGK、ふるさとからちりはじめた
此一句-俳句のつもり-を白船老に呈す

  雨がふつてもほがらか
此一句を俊和尚に呈す。

※表題句、掲載句の外、4句を記す

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Photo/細川忠興が築城した小倉城-S34再建-

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Photo/JOGK-現在のNHK北九州放送局社屋


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2010年10月18日月曜日

帆柱ばつかりさうして煙突ばつかり

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-表象の森- 石田博個人展

具体の作家たちなど、関西の現代美術を半世紀にわたって支えてきた信濃橋画廊が、今年いっぱいで閉じるという記事が夕刊紙面で紹介されていた一昨日-16日-の夕刻、地下鉄に乗って淀屋橋へと降りたつと、約束の友はすでに来ていた。

幕を閉じゆく画廊もあれば、産声をあげ幕を開けようという画廊もある。
裁判所西側近くの大阪法曹ビルの2階に誕生した楠画廊、そのオープン記念に開催されたのがサン・イシドロ窯の石田博個人展。狭いスペースに陶器と絵画の作品が居並ぶ。会期は週末の23日-土-までとか。

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Photo/陶器作品「甲山と夙川の桜」

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Photo/絵画作品「JRからの贈物、軽井沢-横川間の廃線によりバイパスで出会った山々」

Opening Partyとあってすでに知友らの客で室内はいっぱい。しばらく滞在したあと、U君やI君らと近くの居酒屋へと流れる。

―山頭火の一句― 行乞記再び -112
4月22日、曇、あちらこちら漫歩、八幡市、山中屋

朝酒、等、等、入雲洞さんの厚情が身心にしみる、洞の海を渡つて、木村さんを訪ねる、酒、それから同行して小城さんの新居へ、また酒、そしてまた四有三居で酒、酒、酒。
木村さんに連れられて、やつと宿を見つけて泊る、ぐつすり寝た、二夜分の睡眠だ。

四有三さんに-23日小倉から-
「昨日はまるで酔ひどれの下らなさ図々しさを見せるためにお訪ねしたやうなものでしたね、寄せ書きした頃から何が何だか解らなくなりましたよ、でも梅若葉のあざやかさ、おひたしのおいしさは、はつきり覚えてゐるから不思議です。‥」

-略-、洞海-ドウカイ-或は洞の海-ホラノウミ-はいい、此の海を中心として各市が合併して大都市を形成する計画があるさうだが、それはホントウのスバラシイ事業だ。
美しい女が美しい花を持つてゐた。
子供の遊び、今日此頃は軍隊ごつこ、戦争ごつこだ、子供は正直で露骨、彼等は端的に時代の風潮を反映する、大日本主義!

※表題句の外、7句を記す

洞海湾を囲む八幡・若松戸畑・小倉・門司の5市の合併話が現実となったのは、この年-S07-から31年を経た昭和38-1963-年のことである。

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Photo/現在の洞海湾全景

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Photo/伊能忠敬測量地図の洞海湾付近図


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2010年10月14日木曜日

煙突みんな煙を吐く空に雲がない

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―日々余話― 半世紀ぶりの能楽堂

昨日は友からの誘いに相伴し、久しぶりの能楽鑑賞とあいなった。
大阪観世会定期能の普及公演と銘打つもの、場所は北区中崎町の大阪能楽会館だ。

大槻能楽堂には何度か足を運んだことがある、同じく谷町の山本能楽堂にも二、三度あると記憶するが、この会館に来た記憶は、どう手繰っても高2の時に観た「月光の会」の舞台だけしか思いあたらない。だとすれば、往時16歳、なんとなんと50年ぶり、まさに半世紀を隔てての推参だ。

建物の外観など、まったく記憶にないが、四間四方の舞台や橋懸りはおそらく昔のままなのだろう。初めの演目「高砂」を観ながら、ふと50年前に観た「火山島」の一シーンが脳裏をよぎる。

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能組は休憩をはさんで二部構成、正味90分を要した「高砂」のあと、若手の仕舞が3曲、これが一部。二部は「吉野天人」のあと、狂言「竹生島詣」をはさんで、トリの演目が「春日龍神」とある。これでは4時間余を要するものとなろうから、今は東京に住まいするという大蔵流の大倉源次郎君が小鼓方を務める「吉野天人」、もう50代の半ばにもなろうというに、凛々しくも若々しいその懐かしい演奏姿を遠目にたっぷりと拝見させてもらったところで、退散することにした。

「高砂」も「吉野天人」も、シテやツレ、ワキなどの主な役どころを務めていたのが、いずれも若手や中堅といった体に見えた。普及公演と銘打ったあたり、いわばおさらい会の発展系といったところか。客席は結構な賑わいだったが、能の愛好者というより実際に仕舞や謡いを習う中高年の男女がずいぶんと多かったのではないか、と見受けられた。

―山頭火の一句― 行乞記再び -111
4月21日、晴、申分なし、行程3里、入雲洞房、申分なし

若松市行乞、行乞相と所得と並行した、同行の多いのには驚いた、自省自恥。
若松といふところは特殊なものを持つてゐる、港町といふよりも船着場といつた方がふさはしい、帆柱林立だ-和船が多いから-、何しろ船が多い、木造、鉄製、そして肉のそれも!
諺文の立札がある、それほど鮮人が多いのだらう、檣のうつくしい港として、長崎が灯火の港であることに匹敵する如く。-略-

入雲洞君はなつかしい人だ、三年ぶりに逢うて熊本時代を話し、多少センチになる。‥
金魚売の声、胡瓜、枇杷、そしてここでも金盞花がどこにも飾られてゐた。
酢章魚がおいしかつた、一句もないほどおいしかつた、湯あがりにまた一杯が-実は三杯が-またよかつた、ほんに酒飲はいやしい。

徹夜して句集草稿をまとめた、といふよりも句集草稿をまとめてゐるうちに夜が明けたのだ、とにかくこれで一段落ついた、ほつと安心の溜息を洩らした、すぐ井師へ送つた、何だか子を産み落としたやうな気持、いや、私としては糞づまりを垂れ流したやうな心持である-きたない表現だけれど-。

※表題句の外、5句を記す

文中の檣-ショウ-は船のマストのこと

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Photo/帆柱林立する大正時代の若松港

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Photo/現在の若松港全景


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2010年10月10日日曜日

けふもいちにち風をあるいてきた

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―表象の森― 梅岩の心学

「士農工商、おのおの職分なれども、一理を会得するゆえ、士の道を云へば、農工商に通ひ、農工商の道を云へば、士に通ふ」-石田梅岩 1685-1744-

大井玄はその著「環境世界と自己の系譜」-みすず書房 ‘09年刊-のなかで、
江戸時代は、完全な閉鎖系で環境を崩壊させることなく、生産性からみて収容能力の上限に近い人口を維持し、しかも平和に洗練された生活を営むことを可能にした時代であったとし、その閉鎖系への適応と倫理のモデルとして石田梅岩の心学を取り上げている。

彼は士農工商の身分制度を職能的区分として受け入れている。したがって商人が正直に「利を得る」のは武士が「禄を得る」のと同等であり、その職分であると説いた。「職分」とは、プロテスタンティズムなどが言うところの「天職」に似たニュアンスがある。梅岩によれば、それぞれの職分は形では異なっていても、重要であるのは職分をつうじて人の「道」を行うことである。

つまりは「一理」を会得すれば、それぞれの身分の区別を越えて、共通な人の道を歩んでいるのであって、万民は同等なのだ。その一理とは「心を知る」こと、その意味は、私心を去り、本来の心を見出すことである。本来の心とは「天地の心」であって、私利私欲とは関係のないもの。そしてそこにいたる生活の行動様式が「倹約」にほかならず、さらにその根本が「正直」である、という。

その梅岩が、現在の京都中京区車屋町通りの御池を上ったあたりの借家で「性学」-後に石門心学と称される-説きはじめたのは45歳の時。梅岩存命の最盛期には門弟400人を数え、没後も手島堵庵ら門弟たちによって流布し、心学を学ぶ学舎は19世紀半ばには諸藩34カ国180カ所に及び、断書-武芸でいえば免許皆伝の証書-を与えられた者が18世紀半ばからのほぼ1世紀のあいだに36000人以上に達したというほどに流布したともいうから、これはもう当時としては心学運動ともいうべき広汎なひろがりであったろう。

―山頭火の一句― 行乞記再び -110
4月20日、曇、風、行程4里、折尾町、匹田屋

風にはほんたうに困る、塵労を文字通りに感じる、立派な国道が出来てゐる、幅が広くて曲折が少なくて、自動車にはよいが、歩くものには単調で却つてよくない、別れ路の道標はありがたい、福岡県は岡山県のやうに、此点では正確で懇切だ。

行乞相はよかつた、風のやうだつた-所得はダメ-。
省みて、供養を受ける資格がない-応供に値するのは阿羅漢以上である-、拒まれるのが当然である、これだけの諦観を持して行乞すれば、行乞が修行となる、忍辱は仏弟子たるものの守らなければならない道である、踏みつけられて土は固まるのだ、打たれ叩かれて人間はできあがる。

同宿は土方君、失職してワタリをけて放浪してゐる、何のかのと話しかける、名札を書いてあげる、彼も親不孝者、打つて飲んで買うて、自業自得の愚をくりかへしつつある劣敗者の一人。

※表題句の外、4句を記す

立派な国道というのは3号線か、宗像市の赤間から遠賀町に入り、遠賀川を渡って水巻町を経て、現北九州市の西の外れ折尾-八幡西区-の町へ。

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Photo/折尾の駅そばにある鷹見神社の鳥居

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Photo/イルミネーションに彩られた現在のJR折尾駅


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2010年10月6日水曜日

水音を踏んで立ちあがる

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―日々余話― Soulful days-42- 和解案提示さる

昨夕、K弁護士からの封書が届いた。書面は、10月4日付、大阪地裁から和解案が提示された、その写しであった。A4紙3枚、第1面は「事務連絡」と表題され、それぞれ原告代理人と被告代理人宛と並記され、「頭書の事件について、別紙のとおり和解案を送信します。」とあるから、各宛にFaxで送信されたものらしい。いまどきはこういう重要事項まで封書ではなくFaxで事足りるとは、少々驚かされる。

和解案本文は2葉、請求の項目が列記され、項目ごとに原告の主張と和解案の提示額が並記され、その算定根拠や理由が付されているといった仕様で、ずいぶんと判りやすく合理的な体裁に、これまた驚かされる。
提示の額については特段の感慨はない。この事故がここまで争わなければならなかったのはもっと別次の理由があったことだし、これを一個の命の値段と受けとめるような愚を犯せば、またまた不条理の底に沈み込むだけだ。
さらに客観的にみるならば、この提示額は、予想されえた範囲内とはいえ、その上限に匹敵するものだった。

そんなことよりも、私の心を捉えたのは、末尾に付された一文である。
「本件事故は、別冊判例タイムズ16号133ページ<60>図に該当する事案である。基本的な過失割合は、直進車2割、対抗右折車8割であるけれども、被告T.Kが対抗右折車の前照灯を認識していたにもかかわらず、特段の注意を払っていないことも斟酌し、本件事故における過失割合-負担割合-は、被告T.K 3割、M.K 7割とする和解案を提案する。」
8:2が7:3へと、たかが右と左で1移動しただけとはいえ、この過失評価がなされたことは大きい。刑事の法廷ではどうにもならなかったことが、ここで一矢報いえたのは、我々にとっても、またMにとっても、僅かな慰めとも救いともなるだろう。

―山頭火の一句― 行乞記再び -109
4月19日、晴、そして風、行程3里、赤間町、小倉屋

奥さんが夜中に戻つてこられたので、俊和尚も安心、私も安心だ、しかしかういふ場合に他人が介してゐるのはよくないので、早々草鞋を穿く、無論、湯豆腐で朝酒をやつてからのことである。
行乞気分になれないのを行乞しなければならない今日だつた、だいたい友を訪ねる前、友を訪ねた後は、所謂里心が起るのか、行乞が嫌になつて、いつも困るのだが。

もう山吹が咲き杜鵑花が蕾んでゐる、紫黄のきれいなことはどうだ。
同宿5人、-略-、筍を食べたが、料理がムチャクチャなので、あまりおいしくなかつた、うまい筍で一杯やりたいものだ。

※句作なし、表題句は前日記載の中から

現在の宗像市赤間は、唐津街道の宿場町赤間宿。近くには福岡県教育大-赤間文教町-がある。

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Photo/赤間宿の街道筋にある熊越池公園

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Photo/その公園に接するようにある法然寺と須賀神社


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2010年10月3日日曜日

ひさびさきて波音のさくら花ざかり

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―日々余話― 無事開催すれど‥

秋天蒼穹の空ならず、垣間見えるかすかな青空は、いまにもどんよりと厚い雲に覆われようとしている。
そんな朝、KAORUKOの運動会は、ともかくも無事幕を開けたのだが‥。
10月初めの日曜日は、ずいぶんと降水確率が高いらしく、校長の開会挨拶によるば、今の6年生が1年生の時以来、5年ぶりの日曜開催という。昨年は新型インフルエンザ騒ぎであえなく中止となったのだったが、それ以外はずっと雨に祟られっぱなしで延期、平日開催となっていたらしい。

その久しぶりの日曜開催も、11時頃には無情にもパラパラと雨が降り出し、午前のプログラムを終えて、それぞれに家族とお弁当を囲む頃には、とても空の下でとはいかず、体育館やら廊下やらにみな避難しての昼食となる始末。
ごった返す体育館で、親子3人で弁当をつついていたら、続行困難とみたか無情にも、「残された午後のプログラムは火曜日に延期、実施します」との放送が流れたのだった。

―山頭火の一句― 行乞記再び -108
4月18日、けさも早く起きたが雨だ、起きてくる誰もが不機嫌な顔をしてゐる、雨ほど世間師に嫌なものはないのに、此不景気だ、それやこれやで、とうとう喧嘩がはじまつた、怒鳴る、殴る、そして止める。

うるさいから、ぢつとしてゐるのもいやだから、10時過ぎてから、合羽を着て出立する、1時間ばかりで晴れてきた、どしどし歩いて神湊まで8里、久々で俊和尚に相見、飲んで話して書いて。‥
俊和尚が浮かない顔をしてゐると思つたら、夫婦喧嘩して奥さんが実家へ走つたといふ、いろいろ宥めて電話をかけさせる、私と俊和尚とは性情に於て共通なものを持つてゐる、それだけ一入他人事とは思へない、彼も憂鬱、私も憂鬱になる。

筑前の海岸一帯は美しい松原つづきだが、殊に津屋崎海岸の松原は美しい、津屋崎の町はづれの菜の花も美しかつた、いちめんの花菜で、めざましい眺めである-ここでまた、筒井筒振分髪のH子をおもひだした-。
風がふいた、笠どころか、からだまで吹きまくるほどの風だ、旅人をさびしがらせるよ。

今夜は俊和尚の典座だ、飯頭であり、燗頭であつた、ふらん草のおひたし、山蕗の甘煮、蕨の味噌汁、みんなおいしかつた、おいしく食べてぐつすり寝た。
かういふ手紙を書いた、それほど俊和尚はなつかしい人間だ。-
「また松のお寺の客となりました、俊禅師猊下の御親酌には恐入りました、サービス百パーセント、但しノンチップ、折から庭の桜も満開、波音も悪くありません。‥」

※句には隣船寺と前書あり、表題句の外、6句を記す

「筒井筒振分髪のH子をおもひだした」とあるが、「筒井筒」は、世阿弥の「井筒」の原典ともなった「伊勢物語」-第23段-の故事、どうやら山頭火にも初恋の、幼馴染みの面影があったとみえる。

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Photo/恋の浦から東に伸びる白砂青松、津屋崎町

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Photo/津屋崎海岸の夕景

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Photo/いちめんの菜花畑、津屋崎町


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