2012年7月16日月曜日

捨てきれない荷物の重さまへうしろ

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島原半島をぐるりと往く山頭火行乞記

昭和7年2月7日に長崎市内を発った山頭火は、8日に諫早南部の有喜町に泊り、翌9日から23日迄の15日間をかけ、兪々島原半島を西から東へぐるりと廻る行乞行となるが、この行程で眼を惹くのは、心身不調ゆえか理由は一向に解らないが、島原の城下町、坂本屋という宿で7日間の長逗留をしていること、さらに解せないのは、この二週間余に、13日付の「解らない言葉の中を通る」という凡庸な句以外、まったく句を詠んだ形跡がないということである。
たえず雲仙岳の雄姿を横に眺めながら海岸線を歩きつづける彼にとって、句案の機より大自然の雄大さが唯々堪能すべき格好の馳走であったのだろうか…。

行乞記再び -47-
2月8日、雨、曇、また雨、どうやら本降らしくなつた。
ひきとめられるのをふりきつて出立した、私はたしかに長崎では遊びすぎた、あんまり優遇されて、かへつて何も出来なかつた、酒、酒、酒、Gさんの父君が内職的に酒を売ってをり、酒好きの私が酒樽の傍に寝かされたとは、何といふ皮肉な因縁だつたらう!
-略- このあたりには雲仙のおとしごといひたいやうな、小さい円い山が4つも5つも盛りあがつてゐる、その間を道は上つたり下つたり、右へそれたり左へ曲つたり、うねうねぐるぐると伸びてゆくのである、だらけたからだにはつらかつたが、悪くはなかつた、しかしずいぶん労れた、江ノ浦にも泊らないで、此浦まで歩いて来た、
有喜の湊屋。
有喜近い早見といふ高台からの遠望はよかつた、美しさと気高さとを兼ね持つてゐた、千々岩灘を隔てて雲仙をまともに見遙かすのである。‥
-略- このあたりは陰暦の正月3日、お正月気分が随処に随見せられる、晴着をきて遊ぶ男、女、おばあさん、こども。
長崎から坂を登つて来て登り尽すと、日見隧道がある、それを通り抜けると、すぐ左側の小高い場所に去来の芒塚といふのがある。-略-

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Photo/俳人去来の芒塚、向井去来は長崎出身

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Photo/諫早市早見あたりから千々岩灘をとおして望む雲仙

行乞記再び -48-
2月9日、風雨、とても動けないから休養、宿は同前。
お天気がドマグレたから人間もドマグレた、朝からひつかけて与太話に時間をつぶした。

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Photo/現在の諫早市有喜漁港全景

行乞記再び -49-
2月10日、まだ風雨がつづいてゐるけれど出立する、途中千々岩で泊るつもりだつたが、宿いふ宿で断られつづけたので、一杯元気でここまで来た、行程5里、小浜町、永喜屋。
千々岩は橘中佐の出生地、海を見遙かす景勝台に銅像が建立されてゐる。
或る店頭で、井上前蔵相が暗殺された新聞記事を読んだ、日本人は激し易くて困る。‥
此宿は評判がよくない、朝も晩も塩辛い豆腐汁を食べさせる、しかし夜具は割合に清潔だし-敷布も枕掛も洗濯したばかりのをくれた-、それに、温泉に行けて相客がないのがよい、たつた一人で湯に入つて来て、のんきに読んでゐられる。
ここの湯は熱くて量も多い、浴びて心地よく、飲んでもうまい、すべて本田家の個人所有である。
海も山も家も、すべてが温泉中心である、雲仙を背景としてゐる、海の青さ、湯烟の白さ。
凍豆腐ばかり見せつけられる、さすがに雲仙名物だ、外に湯せんべい。

※橘中佐こと橘周太-1865~1904-は日露戦争の遼陽の会戦で戦死、以後軍神と崇められた。現在の長崎県雲仙市千々岩町に生れた。橘家は奈良時代の橘諸兄の子孫とされ、楠木正成と同族と伝えられる。

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Photo/橘中佐の銅像

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Photo/長崎県の千々岩海岸

行乞記再び -50-
2月11日、快晴、小浜町行乞、宿は同前。
日本晴、朝湯、行乞4時間、竹輪で三杯。
水の豊富なのはうれしい、そしてうまい、栓をひねつたままにしていつも溢れて流れてゐる、そこにもここにも。
よい一日よい一夜だつた。

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Photo/長崎県雲仙市小浜温泉の全景

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Photo/国道57号線沿に、湧出温度100°の湯煙が空高く涌き立つ姿が見られる

行乞記再び -51-
2月12日、けふも日本晴、まるで春、行程5里、海ぞひのうつくしい道だつた、加津佐町、太田屋
此町は予想しない場所だつた、町としても風景としてもよい、海岸一帯、岩戸山、等、等。
途中、折々榕樹を見出した、また唐茄子の赤い実が眼についた。
水月山円通寺跡、大智禅師墓碑、そしてキリシタン墓碑、コレジョ-キリシタン学校-跡もある。

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Photo/花房の棚田から加津佐町を望む

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Photo/加津佐町の岩戸山

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Photo/コレジョ跡

行乞記再び -52-
2月13日
朝の2時間行乞、それから、あちらでたづね、こちらでたづねて、水月山円通寺跡の丘に登りついた、麦畑、桑畑、そこに600年のタイムが流れたのだ、やうやくにして大智禅師の墓所を尋ねあてる、石を積みあげて瓦をしいて、堂か、小屋か、ただ楠の一本がゆうぜんと立つてゐる、円通寺再興といふ岩戸山厳吼庵に詣でる、ナマクサ、ナマクサ、ナマクサマンダー。‥
歩いてゐるうちにもう口ノ津だ、口ノ津は昔風の港町らしく、ちんまりとまとまつてゐる、ちょんびり行乞、朝日屋、同宿は、鮮人の櫛売二人、若い方には好感が持てた。
よくのんでねた。
<追記>-玉峰寺で話す、-禅寺に禅なし、心細いではありませんか。
 自戒、焼酎は一杯でやめるべし
    酒は三杯をかさねるべからず
歩いてゐるうちに、だんだん言葉が解らなくなつた、ふるさと遠し、-柄にもなく少々センチになる。
今日は5里歩いた、何としても歩くことはメシヤだよ、老へんろさんと妥協して片側づつ歩いたが、やつぱりよかつた、よい山、よい海、よい人、十分々々。
原城跡を見て歩けなかつたのは残念だつた。

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Photo/岩戸山の麓にある厳吼寺

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Photo/厳吼寺境内の庭

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Photo/玉峰寺は、嘗て切支丹の教会があり、また島原の乱では切支丹らの刑場ともなった地に建てられた曹洞宗の禅寺である

行乞記再び -53-
2月14日、曇、晴、行程5里、有家町、幸福屋
昨夜はラヂオ、今夜はチクオンキ、明日はコト、-が聴けますか。
大きな榕樹-アコオ-がそここヽにあった、島原らしいと思ふ、たしかに島原らしい。
<追記>-幸福屋といふ屋号はおもしろい。
同宿は坊主と山伏、前者は少々誇大妄想狂らしい、後者のヨタ話も痛快だつた-剣山の話、山中生活の自由、山葵、岩魚、焼塩、鉄汁。‥

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Photo/有明海に囲まれ難攻不落の天然の要塞だった原城跡、南島原市南有馬町

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Photo/西有家の吉利支丹墓碑、碑文はポルトガル式綴字法のローマ字。有家町には現在53基のキリシタン墓碑が確認されている。

行乞記再び -54-
2月15日、少し歩いて雨、布津、宝徳屋
気が滅入つてしまうので、ぐんぐん飲んだ、酔つぱらつて前後不覚、カルチモンよりアルコール、天国よりも地獄の方が気楽だ!
同宿は要領を得ない若者、しかし好人物だつた、適切にいへば、小心な無頼漢か。
此宿はよい、しづかでしんせつだ、滞在したいけれど。-

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Photo/布津町から見た島原半島

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Photo/布津町から雲仙普賢岳を望む

行乞記再び -55-
2月16日、行程3里、島原町、坂本屋
さつそく緑平老からの来信をうけとる、その温情が身心にしみわたる、彼の心がそのまま私の心にぶつかつたやうに
感動する。

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Photo/島原城の西側、鉄砲町に残る武家屋敷街の跡

行乞記再び -56-
2月17日~22日、島原で休養。
近来どうも身心の衰弱を感じないではゐられない、酒があれば飲み、なければ寝る、-それでどうなるのだ!
俊和尚からの来信に泣かされた、善良なる人は苦しむ、私は私の不良をまざまざと見せつけられた。
同宿の新聞記者、八目鰻売、勅語額売、どの人もそれぞれ興味を与へてくれた、人間が人間には最も面白い。
※句作なし、表題句は2月2日の句

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Photo/島原城の天守復元は昭和39年

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Photo/平成4年、200年ぶりの雲仙普賢岳噴火での土石流被災を伝える保存家屋

行乞記再び -57-
2月23日、いよいよ出立、行程6里、守山、岩水屋
久しぶりに歩いた、行乞した、山や海はやつぱり美しい、いちにち風に吹かれた。
此宿はよい、同宿の牛肉売、皮油売、豆売老人、酒一杯で寝る外なかつた。
現在、島原・雲仙の地域で守山という名を残すものは、雲仙市吾妻町古城名にある守山城址公園や守山馬場くらいしかない。

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Photo/城址公園となっている守山城本丸跡

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Photo/雲仙市吾妻町と諫早市高來町を結ぶ諫早湾干拓堤防道路が'07年12月開通した。

行乞記再び -58-
2月24日、25日、行程5里、諫早町、藤山屋
吹雪に吹きまくられて行乞、辛かつたけれど、それはみんな自業自得だ、罪障は償はなければならない、否、償はずにはゐられない。
また冬が来たやうな寒さ、-寒があんまりあたたかだった-。
五厘銭まで払つてしまつた、それでも一銭のマイナスだつた。

※諫早湾は干拓の歴史である。湾沿岸地域は、阿蘇九重山系の火山灰質の土砂などが筑後川などの河口に流され、それが有明海を反時計回りの潮流より諫早湾奥部へと供給され続け、堤防の前面などに年間で約5㎝程度のガタ土の堆積が進み、干潟が発達することになる。このため、背後地よりも堤防の前面の干潟が高くなってしまい、慢性的な排水不良となる。この干潟を堤防で囲むことにより、記録によれば、約1330年南北朝の頃)から干拓が行われてきた。

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Photo/諫早湾の干拓地全景


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2012年6月20日水曜日

なにもかも雑炊としてあたゝかく

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―表象の森― 遊びをせんとや‥、戯れせんとや‥ -石田博の東京個展-

6月台風の襲来で列島は豪雨禍のさなかだが、
盟友・石田博の東京での個展が、の昨日-19(火)~24(日)-から始まっている。
題して「今辿り着きしもの」とや。

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今ではサン・イシドロ釡を称する陶芸家としてすっかり定着した感の石田博だが、元来は絵画の人であり嘗ては高校美術の教師でもあった彼。由って石田博の個展といえば、彼特有の些か型破りの力強い陶器たちとともに小品ながら躍動感あふれる風景画が彩りを添えて、まさに遊びをせんとや―戯れせんとやばかりの、石田流造形世界を現出せしめる。

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個展会場は、JR飯田橋近く、外堀通りに面した
「gallery PAUSE-ギャラリースペース・バウゼ-」

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―山頭火の一句― 其中日記-昭和9年-268
2月17日

あたたかい、雨が近いらしい、九州行が困らないやうに。
朝、樹明来、昨夜の酔態を気にかけてゐる、酔うて乱れないやうにならなければ、人間は駄目、生活も駄目だ。
心身ぼんやり、大風一過の気分、凝心ばかりではいけない、私は放心を味ふ、いや楽しむ。
いつでも餓死する覚悟があれば、日々好日であり事々好事である、何のおそれるところもなく、何のかなしいものもない。
食べることが生きることになる、といふ事実は、老境にあつては真実でないとはいへまい。
終日終夜、寝床で読書、ひもじくなれば餅をたべて安らかに。

※表題句の外、9句を記す

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2012年5月31日木曜日

これが一生のをはりの、鴉と子供

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―表象の森― 一気に4ケ月分の購入本など掲載

座・九条の手づくり工事作業とFacebookにかまけて、
なんと84日ぶりの言挙げ、Blogである。

―5月の購入本―
・金完燮「親日派のための弁明」草思社
・金完燮「親日派のための弁明2」草思社
・松岡和子訳・シエイクスピア全集-4-「夏の夜の夢・間違いの喜劇」ちくま文庫
・松岡和子訳・シエイクスピア全集-10-「ヴエニスの商人」ちくま文庫
・高澤秀次「文学者たちの大逆事件と韓国併合」平凡社新書
1910年、大逆事件と韓国併合、同時平行的に起こった内外の政治的事件―
大逆罪の法的根拠となったのは、実に事件の2年前に改訂された刑法第73条、
「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」
であった、という符合。
また、朝鮮半島では、初代統監の伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺されたのが前年の10月であった。
これらの血なまぐさい事件とは、まったく関わりないことのようだが、この年、柳田国男の「遠野物語」が刊行された。新たなる国学としての柳田民俗学、黎明の名著だが、350部の自費出版からスタートしたこの初版本の扉には、
「此書を外国に在る人々に呈す」と記されていた。
「外国に在る人々」とは、日本人以外の外国人ではなく、海外にいる日本人のことである、というが、その真意は奈辺にあったか‥。
ともあれ、農政官僚でもあった柳田が「朝鮮」や「台湾」の植民地経営に、いかにコミットしたかについては、村井紀の「南東イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義」なる批判的考察がある、という。
・高橋昌一郎「理性の限界-不可能性・不確定性・不完全性」講談社現代新書
08年6月第1刷発行で、私が手にしているのは11年6月第14刷だから、新書のベストセラーにも擬せられようか。
Booklogでも現在のところ登録者1253人を数えている。
ベストセラー化や評判のよさは、偏にディスカッション形式で論を進めていく体裁に負ったものなのだろう。
Amazonのレビューにこんな書評があった。とても参考になったので以下にその一部を引く。
「本書は文科系の学者が数学や自然科学の本質を理解しないまま解説書の結論だけを誤解して読者に提示したという印象である。
相対論を哲学者が議論するのは良いがまずは相対論を理解してほしい。ある物理学者の言葉である。名は伏せるが某大学の教授を経験した方である。哲学は諸学の王と西洋で言われた。アリストテレスの時代は数学も天文学も生物学も哲学の領域であった。科学者が哲学者を兼ねていたのはデカルトやパスカルの頃までだろうか。アメリカの記号論の創始者のパースを加えても良いかもしれない。しかしアラン・ソーカルの事件を引くまでもなく何時の間にか科学を理解しない者が科学の哲学を語るようになってしまった。本書を読んで感じたのは哲学の限界である。数学や物理の成果を知るだけなら一般向けの解説書でも可能である。しかしその成果の意味を知るには専門書から学ばなくてはならない。その学問の哲学的解釈を目指すなら尚更である。」
・住井すゑ「住井すゑ作品集-1-相剋・大地にひらく」新潮社
・住井すゑ「住井すゑ作品集-3-憎まれ者・農婦譚・子供の村・夜明け朝明け、他」新潮社

―4月の購入本―
・住井すゑ「住井すゑ作品集-4-橋のない川-第1部・第2部」新潮社
大逆事件の関連書二冊-田中伸尚「大逆事件-死と生の群像」と佐木隆三「小説-大逆事件」-を読んだあと、本書を読むことになった所為だろう、
ディテールのひとつひとつが時代背景の事象と絡み合って、非常に迫真性のある世界にどっぷりと浸りきった鑑賞になった。
・住井すゑ「住井すゑ作品集-5-橋のない川-第3部・第4部」新潮社
・住井すゑ「住井すゑ作品集-6-橋のない川-第5部・第6部・第7部」新潮社
・佐木隆三「小説・大逆事件」文春文庫
「父上は怒り給ひぬ我は泣きぬ さめて恋しい古里のゆめ」
明治44-1911-年1月19日、死刑判決を受け、その5日後の24日、処刑された11人の内の森近運平の辞世の歌が、強く胸を撃つ。
著者はオーム真理教の地下鉄サリン事件を傍聴取材するなかで、昔からいつかはとモティーフに抱いていた大逆事件を背中を押されるように執筆にかかった、とあとがきに記している。
残され知りうるところの裁判記録・調書資料を詳細にあたって緻密に構成、事件の全貌を映し出している労作ではある。
・山城むつみ「ドストエフスキー」講談社
・「世界遺産の街を歩こう」学研パブリツシング
・竹下節子「キリスト教の真実-西洋近代をもたらした宗教思想」ちくま新書
ひと言で評せば「キリスト教の社会学」と謂うが相応しい書だ。
自身の認識不足、不勉強を思い知らされつ、
キリスト教を軸に歴史の、とりわけ西欧史の勉強をさせていただきました。

「無神論-二千年の混沌と相克を超えて」の著者新刊の書。
まえがき冒頭においてー
日本人には「近代はキリスト教を根にもつ」ことがわかりにくい理由は、「非キリスト教国に住む日本人には、西洋近代のパラダイムを作ったキリスト教の要素が見えにくい」という単純なものではない。
より本質的な理由は、近代以降、西洋キリスト教諸国によって書かれた「世界史=西洋史」が、「反キリスト教」プロパガンダによってねじ曲げられているからなのである。
換言すれば、「日本人はキリスト教になじみがないからその本質がわからない」のではなく、「反キリスト教」のバイアスのかかった「西洋史」を学んできたからわからないのである。
・L. ウィトゲンシュタイン「青色本」ちくま学芸文庫
・福永光司「荘子-内篇」講談社学術文庫

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―3月の購入本―
・再び、立ち上がる!-河北新報社、東日本大震災の記録」河北新報社
震災に、津波に
遭われた人々の
貴重な記録の数々―
多くの人々の心に
深く刻み込まれ
長く、語り継がれなければならぬ―
・サイモン・シン「暗号解読-上-」新潮文庫
・サイモン・シン「暗号解読-下-」新潮文庫
・山鳥重「言葉と脳と心-失語症とは何か」講談社現代新書
本書を手にする動機となったのは、
毎日新聞「今週の本棚」2/12で見かけた山崎正和氏の書評で、「言語の起源」を考えるに示唆に富むといった発言に促されてのことだったのだが‥。
どうやら山崎氏の思考回路と私のそれとでは、かなりの隔たりがあるらしい。

―2月の購入本―
・赤坂憲雄・小熊英二他「東北再生-その土地をはじまりの場所へ」イースト・プレス
終章、小熊英二の「近代日本を超える構想力」が小論ながら、戦前・戦後史を踏まえた、食糧と労働力の供給地としての東北、さらには電力供給地としての東北、への分析・論考が説得力あるものとなっている。
・A.ウ=グーラン「身ぶりと言葉」ちくま学芸文庫
・帚木蓬生「蛍の航跡-軍医たちの黙示録」新潮社
・中沢新一「フイロソフィア・ヤポニカ」講談社学術文庫
・柚木伸一「いけにえの美学」雄渾社
第二部の短いエッセイ群の中に、私自身とも繋がる記述を見出し、一瞬に半世紀近くの歳月を遡る。
当時の大阪市大の劇団「つのぶえ」による、井上光晴の代表作「地の群れ」を劇化、上演-64年春か-した舞台の評だ。
演出が垂水謙一、脚色は安西清尚と垂水健一、両人とも前年神澤師が起ち上げたActual Art-状況芸術の会-に拠り集った市岡OB、そして私も‥。
その関わり深い部分を以下引用する。
「舞台の問題として、一つの舞台を幾つかの空間セクションに分け照明を駆使すること-当時よく見られた構成舞台の手法-によって重層的に使おうとする試みは垂水健一のすでに得意技になりはじめた感があるが昨秋、同じこの場所(大手前会館)で公演した状況芸術の会「狐狩り」(八海事件に取材したもの)の時の効果に比して発展したとは思われない。むしろ後退かマンネリが見られるのはどうしたことか。「狐狩り」においては、空間の、照明、暗転による分割を時間相、空間相両面において(回想場面などの時間の遡上をおりこんで)駆使したため、そこにドラマの重層モンタージュ手法としての効果があったといえるが、今回は空間相だけの表現におわったためにドラマツルギーにまで平面性がもちこまれてしまったように思う。」
と鋭い指摘をしているのだが、
してみると、高校を出たばかりの19歳の若輩で、「狐狩り」公演の演出部の末席に加わり、役者としても舞台に立った私を、記憶にとめたかどうかは知らず、伸一氏の眼を汚していたことは事実なのだ。
もう一つ眼に留まった舞台評を記しておく。
それは「舞台協力の一つの挫折」と題された森田真弘・益代モダンダンス公演-63年11月-の舞台評だが、ここに暗黒舞踏の土方巽が登場してくることだ。
舞台は三部構成で、彼は三部の「善意野郎」と題された作品に「首吊男」という役回りで登場したらしく、「その数分間舞台を鋭くしめるだけの美事さをもっていて注目された。」と記されている。
ところが、慶應義塾大学アートセンターにある「土方巽アーカイヴ」の土方巽年表には、この公演出演の記載は見あたらない。61年と66年の森田真弘・益代モダンダンス公演賛助出演の記載はあるのにだ。
念のため「新国立劇場情報センター」の「日本洋舞史年表」を調べてみると63年11月産経ホールでの公演としてたしかにあった。
60年代、土方巽は計三度にわたって来阪し、森田真弘・益代モダンダンス公演に出演していたことになる訳だが、これらの事実も暗黒舞踏創始者たる土方巽の当時の一面を語っておもしろい。
・永井隆「如己堂随筆」アルパ文庫
このエッセイ集は、12,3才位の思春期前期の子どもらが読むといいな、というのが第一感。
白血病を罹病し迫りくる死と向き合いつつ病中臥床に著者が、淡々とよしなし想いごとを述ぶるその語り口は、信仰の深さが底に流れ、どこまでも清らで真摯だ。
とくに印象深かったのは、巻末『お返事集』の最後の一編。
6年も大陸で行き方知れずだったクリスチャン看護婦から無事の便りを得て、それへの往信だが…。
終戦後ほぼ1年を経て、満州からの日本人送還が始まった頃、彼女にも
乗船の順番がきて船待ちをしていたところへ、中共軍が攻め寄せてきて、看護婦数名を救護隊として差し出せと要求してきた。そのとき彼女は、別の子連れの看護婦に乗船を譲ってやり、大陸に残ったのだった。
以後ずっと、彼女は中共軍救護隊の一員として、大陸の各地を転戦し廻ったのだろう。
彼女からの無事を知らせる便りは、広東省の山深い地からのものだった。
読後、はて、この女性のその後の行く末はどうであったのか、ひとときあらぬ想いに捉われた。
・永井隆「亡びぬものを」アルパ文庫
戦中下、放射線治療の現場を牽引した医者でありつつ、敬虔なカトリシズムに帰依するという二極を体現した精神と日常性の劇的半生記。
主人公を仮名にして<自伝的小説>となっているが、医者でクリスチャンであった永井隆の自伝そのものといっていいでしょう。
2部14章400頁に余るが、行間もゆったりとっており、さほどの分量でなく、一気に読める。
日中事変の最初の動員で召集され、昭和12年8月から15年2月の下関帰還まで、衛生隊の医長として中国各地を転戦する模様を描いた第2部の「死線」から、「助教授」「救護班」「白血病」そして最後の長崎原爆投下の「灰」に至る後半部は、カトリシズムのあふれるような精神性に強く胸撃たれます。
・大角修「平城京全史解読―正史・続日本紀が語る意外な史実 」学研新書
藤原京から平城京―この時代の皇家や藤原氏入り乱れての権力の抗争史については、類書をいくつか読んでもおり、先刻承知ではあるが、これらの事件をあくまで「続日本紀」に即しつつ語るという、19章からなる本書であるから、どうしても総覧的にならざるをえない。

―図書館からの借本―
・E.トツド「世界の多様性-家族構造と近代性」藤原書店
地球上の各地域における文化的成長、政治イデオロギー、経済的動向を根底で条件づけているのは<家族構造>に見られる人類学的な要件であり、その逆ではないということを詳細に説く、E.トッドの「第三惑星」と「世界の幼少期」を合本とした大著。
・黒ダライ児「肉体のアナーキズム-1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈」grambooks
著者は福岡在住の前衛美術研究家、'61年生れとか。
圧倒的ヴォリウムの本書は、平成22年度の芸術選奨の評論その他部門で新人賞を受賞した、という。金石範・金時鐘
・「なぜ書きつづけてきたかなぜ沈黙してきたか―済州島四・三事件の記憶と文学」平凡社
済州島四・三事件の内実を知るには貴重な書。
ひたすら沈黙をしてきた金時鐘の独白にも似た、さまざまな出来事の詳細な語りは、その重さゆえにか、なかなか読み進めるものではない。G.アルミンナセヒ「ルーマン社会システム論-知の扉をひらく」新泉社
・田中伸尚「大逆事件-死と生の群像」岩波書店
死刑や無期となった26人の遺族・関係者を訪ね歩き、大逆事件100年の全貌を語り尽くさんとした、元新聞記者ならではの労作。
本書を読み進むのは大変な労力であった。
一つ一つの語られる細部の、それらが名もなき無辜の人々の語りなればこそ、それら事実の重さが迫りきて、到底冷静にはなりきれぬ。否応もなく込み上げる憤慨と悲痛にたびたび中断を余儀なくさせられた。
1910(明治43)年といえば、韓国併合(8月)の年であるが、
事件の発端は信州明科爆裂弾事件ーこの年の5月、爆弾製造の疑いで長野県の宮下太吉ら4名が逮捕されたが、この取り調べの中で「明治天皇暗殺計画」なるものが浮上する。それがどれほど現実性を帯びたものであったなどということは当局にとってどうでもよかった。
以降、この事件を口実に数百人に及ぶ社会主義者・無政府主義者に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、大きくフレームアップされていく。
検察は幸徳秋水や菅野須賀子ら26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴、大審院での非公開の公判は異例のスピードで進められ、翌11年1月18日には、死刑24名、有期刑2名の判決が下された。
だが、なぜか死刑判決の翌19日には、12人が恩赦によって無期に減刑された。その理由はまったく明らかではないが、社会には天皇の恩だけが印象づけられた。「聖恩、逆徒に及ぶ」などと新聞は書き立てた。「逆徒」とされたがゆえに「恩赦」は、無実の人々への死刑判決の誤りをかき消してしまう効果をもったのである。
かくて1月24日には幸徳秋水ら11名が、25日は菅野須賀子が処刑された。
その後、無期刑中に獄死したのは5名、仮出獄できたのは7名に過ぎない。
寡聞にして本書で知りえたもう一つの驚愕的な事実ー
この事件の捜査を主導した当時大審院次席検事だった平沼騏一郎は、事件の後、検事総長へと栄進、22(大正11)年には大審院院長、さらに関東大震災後の第二次山本権兵衛内閣で司法大臣に就任し、司法界のトップに立つ。
「大逆事件」で出世街道を歩んだだけでなく、政治の世界にも進出する。
貴族院議員、枢密顧問官、枢密院議長(1936年)などを歴任、旁ら国家主義団体の「国本社」会長を務め、政界への国家主義的な影響力を行使しつづけた。
そしてヒットラー・ドイツの侵略開始直前の39(昭和14)年1月、ついに近衛文麿の後を襲って内閣総理大臣に就任、政治の世界のトップにまで躍り出たのである。
この平沼内閣は、想定外の独ソ不可侵条約調印によって7ヶ月という短命に終るが、なおも政界との関係は切れず、第二、第三次近衛内閣でも国務大臣などを務め、敗戦後の極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身禁固刑の判決を受けることとなるのである。
・川本三郎「白秋望景」新書館
本書を繙き、白秋の境涯に触れながら、家業の破綻という同じ運命に翻弄され、有為転変を生きた山頭火のことを、
たえず対照しないわけにはいかなかった私である。
山頭火、明治15-1882-年12月生れ、出生地は現在の防府市八王子、近在では大種田と称された大地主の総領息子であった。
白秋、明治18-1885-年1月生れ、周知の如く福岡県南部の柳川出身、生家は代々続いた海産物問屋であり造り酒屋でもあり、これまた総領息子として生を享けた。
両人ともに早稲田に学んだ。
山頭火は、明治34-1901-年、開設されたばかりの東京専門学校高等予科-翌年早稲田大学に改称-に、3ヶ月遅れの7月入学であった。
また白秋は、明治37年4月、早稲田大学予科へ入学。
山頭火は文学科志望、同期に小川未明や吉江喬松、村岡常嗣ら。
白秋は英文科、同期に若山牧水や土岐義麿がおり、牧水とは同郷の誼でいちはやく下宿を共にするほどに交わっている。
だが、両人とも、すでに家産の傾きをかかえ、早稲田での学業生活は長続きしていない。
山頭火は、神経衰弱を病んで、明治37年2月に退学、同年7月には、病気療養のため帰郷している。
彼が、自分より2歳年下の萩原井泉水に師事し、おのが詩業を自由律俳句に求め、句作するようになるのは、帰京後、結婚そして長男出生を経た後の、大正2-1914-年、31歳のことだった。
白秋は、入学の翌春-M38-に早くも退学しているが、「早稲田学報」の懸賞詩に一等入選をするなど、その詩才は、すでに詩歌同人らに評価高く、注目の人であった。
さらに翌39年の春には、与謝野鉄幹・晶子の新詩社同人となり、木下杢太郎や石川啄木、吉井勇らと交わるようになる。
若くして文芸を志し、まことによく似た境涯にありながら、この二人、それぞれの詩才の開花、その時期のズレによって、その後の歩みは、決定的なほどに乖離しているのだが、その対照に想いを馳せながら読み進めるのもおもしろい。
・太田省吾「水の希望-ドキユメント転形劇場」弓立社
・DVD「太田省吾の世界」
Disc.1-小町風伝/水の駅
Disc.2-更地/砂の駅
Disc.3-エレメント/インタヴユー1
Disc.4-聞こえる、あなた?/インタヴユー2他

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・太田省吾「太田省吾劇テキスト集」早月堂書房
私自身演劇の徒でありながら、初心の頃からずっとだが、滅多に戯曲自体を読むことはない。戯曲を戯曲として鑑賞することと、それを演ずるものとして読むこととのあいだには、経験として否応もなくかなりの距離を感じざるをえなかったからだ。
先日、「水の駅」「地の駅」「風の駅」と沈黙劇三部作に至る太田省吾の、その端緒となったものと目されてきた「小町風伝」の舞台を観た。日韓演劇フェス2012in大阪の演目として、韓国の演出家・李潤澤によって上演されたその舞台は、戯曲に書き込まれたト書きまで含め、その言葉をすべて役者らに発語させるという趣向のものだった。あえて太田省吾とはまったくの逆手を採ったという訳だ。
その舞台は、主演の老婆役・河東けいの語り芸の巧みさ豊かさに負うところ大で、それなりに見応えのある世界ではあったのだが、この対極ともいえる演出手法が採られる必然性が奈辺にあったのか、そのことを自分なりに吟味してみたくて、私としてはめずらしくも戯曲「小町風伝」を読むこととなったのである。
あとがきに太田省吾自身が語っている-ちなみに本書の出版は'78年、「小町風伝」の初演は'77年、もう35年も経ている。
「演じられる劇に劇を見る考えとは、いわば台本に書けぬことに劇の所在を置くことであり、それは必然的に演技を劇の中枢とするということである。
そして、演技に劇的関心を集中することは、身体を日常の身体からきわだった、特殊な身体へ傾斜させることを要求することになる。
とすると、演じられた劇を劇と考える<台本>とは、特殊な身体で吐くことのできる科白を目論まなければならぬこととなる。
現在の<台本>の最先端の課題はここにあるのであり、この課題こそが、劇を<誇張された文学>、あるいは<文学への一種のアクセントづけ>から真に自立させうる唯一の方法であると私は考えている」と。
「特権的肉体論」という言辞もあった。
演じられるもの-役者の、発話をも含めた身体性こそが、劇的なるものの核であるべき、そんなことが求められ、実験的な舞台がさまざまに奔出した時代であった。
「小町風伝」の太田省吾は、その後裔たちの群からきわだって光彩を放った劇宇宙であった筈だ。
その意味からしても、李潤澤演出の「小町風伝」は、太田省吾が現出しえたその世界の、いわば絵解きに終始したものとなったのではないか。
そうとしかなりえなかったについては、演技陣が関西で活躍する者たちで構成され、いわば異国の演出家と演技者たちの組合せ、日韓交流という舞台設定の枠組そのものから、やむを得ざる仕儀であったともいえるのだろう。
・加納喜光「常用漢字コア・イメージ辞典」中央公論新社
毎日新聞「今週の本棚」の山崎正和氏書評に惹かれて図書館から借本した。
曰く「記号論的な言語学は、言語を指し示すもの(シニフィアン)と示されるもの(シニフィエ)、音とイメージとの対応関係によって成立するものと考えてきた。だが両者がなぜ必然的に関係づけられるか、その結合の十分な根拠は、これまで看過されてきた問題だった。
ここでもし加納が言うように、ある特定の音がイメージと本来的な親縁性を持っているとすれば、この難問は一気に解決される。その意味で彼の「音・イメージ」説は、漢字の説明を超えて言語論一般にとっても、大きな貢献となる可能性を秘めている。」
・石岡瑛子「私・デザイン」講談社
'83年、ニューヨークの出版社から作品集「EIKO BY EIKO」-日本語版「石岡瑛子風姿花伝」求暮堂-が出され、その前後から彼女の活動拠点はニューヨークに移っていたわけだが、本書全12章は、以後20年間にわたって、彼女が関わったアートデザインの選りすぐりのプロジェクト、映画「MISHIMA」にはじまり、ブロードウェイ劇の「M.バタフライ」、オペラ「ニーベルングの指輪」、シルク・ド・ソレイユの「VAREKAI」etc.そして最後にソルトレイク冬期五輪におけるデサント社のデザインプロジェクト、これら12の仕事を、さまざまなビッグアーティストたちとの出会いから制作過程のエピソードなどを交えつつ総覧したものだ。
文章は平易でいたって読み易いが、自身あとがきで綴るように、「私にとって最上の、そして唯一の、表現への道案内」とする、彼女独特の迸るほどの<Emotion-感情・感動>に全編貫かれているから、読み手にとってけっして気楽な読み物ではない。
とりわけ印象深かったのは、第4章「映像の肉体と意志-レニ・リーフェンシュタール」展と、オペラ「ニーベルングの指輪」四部作の第8章だが、前者はレニという存在自体の栄光と悲惨の苛酷な人生がオーパラップされるからであろうし、後者はワーグナーの大作を野心的な新解釈で取り組むというフィールド自体に潜む困難さにあったかと思われる。

―山頭火の一句― 其中日記-昭和9年-267

2月16日
霜晴れ、霜消し一杯!
旧正月で、鮮人連中の踊り姿を見た、赤、黄、青の原色がけばけばしいが、原始的のよさがないでもなかつた。
樹明君を訪ね、さらに久芳さんを訪ねる、週刊朝日所載の、井師「酒と水」とを読ましてもらふ、そこには私の事がまざまざと書いてあつた。
午後、武波憲治君の葬式に列した、彼の一生、人間の一生といふものがつくづく考へられた。
夕方、樹明君来庵、テル坊も来庵、彼女は餅を持つてきてくれた、餅は好きだ、煮ても焼いてもうまい、餅と日本人の生活、といふやうな事も考へる。
暮れて、樹明君と同道して岐陽さんを訪ねる、さつそく酒になる、久芳校長も浅川国手もやつてこられて、一升瓶が何本か倒れた、下物はお手のもので凝つたものばかり。酔うて、二人であちらこちらと歩く、そしておそく帰庵。
久芳さんが満州の石鍋を下さつた、樹明君が生酔本性を発揮して、無事持ち帰つてゐるといふ、東上送別にはその鍋でスキヤキして一杯やりたいな。

※表題句の外、13句を記す

※昭和7年8月28日付-231-でも出てくるが、武波憲治の離れ座敷が其中庵となっており、いわば彼は山頭火の家主である。

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2012年3月8日木曜日

雪あかりの、足袋のやぶれからつまさき

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―四方のたより― 手づくりの仮称「座・九条」

還暦を迎えたのももうずいぶんまえ、我が人生もすでに第4コーナーを廻って、そろそろラストストレッチに差しかかる頃なのだろう。

なればこそ、梁塵秘抄の彼の歌―
「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生れけむ
 遊ぶ子どもの声きけば 我が身さえこそ動がるれ」

ではないが、もうひとしきり狂うてみせう、と思い立ち、仮称「座・九条」なる拠点づくり、フリースペースの空間をものし、やれるだけのことはやってみよう、という運びとなった。
なにしろ、我が台所事情を考えれば、かなりの部分が手づくり、よき理解者を得、面白がってこれに参画してくれる知友の存在が、実現の必要条件となる。
それが、やっと起動しはじめた。
ありがたいことだ。

Photo
1- Free Space「座・九条」イメージ図

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2- 最寄り駅は、阪神なんば線九条駅②番出入口、此処からは文字どおり目と鼻の先。

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3- 阪神なんば線九条駅②番出入口を上がれば、正面にTimes。その後ろに見える谷間の建物だ。

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4- 地下鉄中央線「九条駅」からも近く、徒歩5分ばかりの距離だ。

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5- 高架の駅を降りて、九条新道の商店街を西へ。

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6- そのすぐ南の筋は、千日前ならぬ、「千日通り」という名。

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7- 九条シネ・ヌーヴォーの前を通れば、そのすぐ先、三叉路の向こう正面だ。

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8- 此処、シネ・ヌーヴォーの近く、稽古場兼用の近くフリースペース、拠点づくり―

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9- 着々とはいかぬが、ボチボチと進行中…。
倉庫跡のその内部ー20坪余りの空間。
高く積まれているのは、舞台用の二重、計80枚ばかり、これが1階及2階部分の床材となる。

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10- ご覧のとおり、鉄骨部分と空調設備だけは、業者の手に委ねて、出来上がっている。


―山頭火の一句―
其中日記-昭和9年-266

2月15日
雪、雪はうつくしいかな、雪の小鳥も雪の枯草も。
わらやふるゆきつもる ― これは井師の作で、私の書斎を飾る短冊に書かれた句であるが、今日の其中庵はそのままの風景情趣であつた。
ふりつもる雪を観るにつけても、おもひだすのは一昨年の春、九州を歩いてゐるとき、宿銭がなくて雪中行乞をしたみじめさであつた-如法の行乞でないから-、そのとき、私の口をついて出た句 ― 雪の法衣の重うなりゆくを ― その句を忘れることができない。
裏山のうつくしさはどうだ、私はしんしんとふりしきる雪にしんみりと立つてゐる山の雪景色に見惚れた。
-略- 
句作道は即ち成仏道だ、句を味ふこと、句を作ることは、私にあつては、人生を味ふこと、生活を深めることだ。
主観と客観が渾然一如となる、或は、融け込む人と融かし込む人、言ひ換へれば、自己を自然のふところになげいれる人と、自然を自己にうちこむ人と二通りある、しかし、どちらも自然即自己、自己即自然の境地にあることに相違はないのである。-略-

※この日、ずいぶんと句の整理をしたらしく、表題句の外、33句を記す


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2012年2月25日土曜日

ふくらうがふくらうに月は冴えかへる

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―表象の森― 末永旭濤は「小栗栖」

明26日-日曜-は、奥村旭翠一門の筑前琵琶演奏会。
毎年春先の頃に開催され今年で22回目とか。
はて、旭濤こと連合い殿の出演は10回ほどを数えるのだろうか、
いつのまにかそれほどに歳月を重ねてきたのだ。

Biwanokai

―山頭火の一句― 其中日記-昭和9年-265

2月14日
今日は旧のお正月です、お寺の鐘が鳴ります、餅を貰ひに行きましよか、さうらうとして鉢の子ささげて。
どうも憂鬱だ、無理に一杯ひつかけたら、より憂鬱になつた、年はとりたくないものだとつくづく思ふ。
畑仕事を少々やつてみたが、ますます憂鬱になる。読書すればいよいよ憂鬱だ。
春風よ、吹きだしてくれ、私は鉢の子一つに身心を託して出かけやう、へうへうとして歩かなければ、ほんたうの山頭火ではないのだ! -略-
思ひがけなく、東京の修君からたよりがあつた、彼も私とおなじく落伍者、劣敗者の一人だ、そして細君にこづかれてゐる良人だ、幸にして彼にはまだ多少の資産が残つてをり、孝行な息子があり、世才がないこともないので、東京で親子水入らずの、そして時々はうるさいこともある生活をつづけてゐるらしい、修君よ、山の神にさわるなかれ、さわらぬ神にたたりなしといふではありませんか!
夕、樹明君に招かれて宿直室へ出かける、うまい酒うまい飯だつた、そのまま泊る、あたたかい寝床だつた。

※表題句の外、4句を記す


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