2010年12月28日火曜日

わらや一つ石楠花を持つ

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―四方のたより―

寒風が吹きつけるEVEの夜、予想通り?数のうえでは寂しい客席だっが、
演者たちは舞も奏も心を尽していい出来だった。
約束の会合があるのですぐにも退散しなければと云っていたOさんも、
気の毒に?その機を逸したまま最後までご覧になっていた。

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終ってからオーク1階の居酒屋でお疲れさん会、
一年の垢を落とすがごとき仲間との語らいは熱く、終電近くまで続いた。

―日々余話― Soulful Days-45- Postscipt-あとがき-

  詩人田村隆一の「四千の日と夜」のなかに
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり
われわれはその道を行かなければならない
   という四行がある。          
  詩と死――
  不慮の事故、逆縁の死
  などという災禍が降り来たった
  その母は、また、その父は
  語るべき言葉など、ほんとうはなにもない
  ただ、それぞれの残された生に
  言葉にはなりえぬ、
  無言の詩を刻みつけるだけなのだ。

―山頭火の一句― 行乞記再び -132
5月16日、晴、行程4里、三隅宗頭、宮内屋

すつかり初夏風景となつた、歩くには暑い、行乞するには懶い、一日も早く嬉野温泉に草庵を結ぼう。
けふの道はよい道だつた、こんやの宿はよい宿だ。
花だらけ、水だらけ、花がうつくしい、水がうまい-酒はもう苦くなつた-。
途上で、蛇が蛙を呑まうとしてゐるのを見た、犬養首相暗殺のニユースを聞かされた。

※表題句の外、4句を記す

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Photo/長門市三隅上宗頭にある宗頭大歳社


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2010年12月24日金曜日

葉桜となつて水に影ある

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-表象の森- 親鸞の悪人と凡夫
今村仁司「親鸞と学的精神」より

<悪人―存在>
親鸞の「悪」は存在論的概念
「屠はよろづのいきたるものをころしほふるものなり、これはれうし-猟師-といふものなり。沽はよろづのものをうりかうものなり、これはあき人-商人-なり。かやうのものどもは、みないし-石-・かわら-瓦-・つぶて-礫-のごとくなるわれらなり」
親鸞のいう「われら」とは現世-五濁悪世-において煩悩に縛られ、すべての煩悩をかかえたままに生きる「例外なくすべての人間たち」である。
現世のなかにいるかぎり「汚染され濁った人間」つまりは「悪であるほかはない人間」であり、「悪人」の対概念は「善人」ではなく「浄人」あるいは「覚者-覚醒した人」である。
人間はおしなべて例外なく「悪-人」である、人間であることは悪人である宿命を免れることはできないのだ。
問題は自分が世俗的本質、世俗的人間としての本質を自覚するかどうかであり、社会的規定が何であれ自分が世俗的人間であるかぎり、全面的に悪人であると自覚する者だけが、自我に執着して自己の力量を自慢し誇示することの絶対的不可能を認識し、自力救済の不可能の確信から他力への信頼を腑に落ちるようにして自覚できる。
救済とはこの我執的存在をはっきりと知るに至りながら、我執を自分で取り去ることができないという根源的な事態に直面する人、これが悪人であり、その人だけが厳密な意味で救済の対象になる。
この臓腑的知こそ親鸞が力説する「信」である。

人間なるもの-凡夫
凡夫とは「煩悩具足」の存在であり、煩悩とは玄奘の訳語で云えば「計所執性」
遍計所執性とは
1. 遍く計らうことであり、これには、①-自己を計らうことと、②-自分以外の周り-対象を-計らうこととがある。
2. はからうことに執する-はからう自我に執する
3. はかられたものに執する-はかられたものに執する-はかられた対象に執する。
4. 執することに執する
「我はからう」-根源的な「生きる欲望」-「力への意志」

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

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―山頭火の一句― 行乞記再び -131
5月11日、12日、13日、14日、15日

酒、酒、酒、酒、酒、‥遊びすぎた、安易になりすぎた、友情に甘えすぎた、伊東君の生活を紊したのが、殊に奥さんを悲しませたのは悪かつた、無論、私自身の生活気分はメチャクチャとなつた。‥‥
いよいよ15日の夕方、大田から1里ばかりの山村、絵堂まで送られて歩いた-このあたりは維新役の戦跡が多い、鍾乳洞も多い-。
秋吉台の蕨狩は死ぬるまで忘れまい。
しつかりしろ、と私は私自身に叫ぶ外なかつた、、ああ。

――赤郷絵堂、三島屋

※表題句の外、16句を記す

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Photo/高杉晋作の奇兵隊ゆかりの大田・絵堂の戦の本陣跡

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Photo/現・美祢市美東町の赤郷八幡宮

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Photo/秋吉台の原生林、長者ケ森


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2010年12月22日水曜日

けさの風を入れる

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―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

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―山頭火の一句― 行乞記再び -130
5月10日、晴、2里ばかり歩いて3里は自動車、伊東宅-大田-

樹明君がどうでも大田までいっしょに行くとの事、職務妨害はいけないと思ったが-君は農学校勤務-、ちつとも妨害にはならないといはれるので、一杯機嫌で伊東君の宅へころげこんだ、幾年ぶりの再会か、うれしかつた。
街の家でまた飲む、三人とも酒豪ではないが、酒徒であることに間違はない、例によつて例の如く飲みすぎる、饒舌りすぎる。

葉山葵はおいしかつた、苣膾-チシャ-はなつかしかつた

※句作なし、表題句は5月9日所収の句
小郡は、この後、山頭火が其中庵を結び、6年間におよび常住する地であるが、昭和40年代、50年代の時ならぬ山頭火ブームの所為だろう、今では市内各所に20数ケ所の句碑を数えるという。

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Photo/小郡市内にある山頭火句碑の変わり種、「ポストはそこに旅の月夜で」

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Photo/同じく、「蛙になりきって跳ぶ」


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2010年12月19日日曜日

こんやはここで寝る鉄瓶の鳴る

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―日々余話― 嵐山花灯路

昨夕、親子三人連れで、嵐山の花灯路へ行ってきた。
さすがに阪急電車のに乗った段階からかなりの混みようで、桂からの嵐電はさらに輪をかけて満杯状況。
渡月橋は人、人、人であふれかえり、左側通行に規制された歩道は数珠つなぎで、ぞろぞろと歩いては止まり、また歩いては止まりで、ただ渡りきるだけで20分近くかかったのではないか。
天竜寺の門前を通り、竹林の小径、大河内山荘、常寂光寺、去来ゆかりの落柿舎と経めぐって、また門前へと戻ってくるのに1時間半は要したろう。

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ほっと息抜きのつもりで出かけたのだが、豈図らんや、かえって疲れを溜め込んだような始末。
とんだ災厄となったのは子どものほうで、よほど消耗したとみえて、しばらくご無沙汰だった喘息の気が、昨夜の就寝前からまたぞろ出てきたようだ。
かほどの人出を予想しなかった私のしくじりと、反省しきり。

―四方のたより DANCE CAFÉ 2010 EVE

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―山頭火の一句― 行乞記再び -129
5月9日、曇、歩いて3里、汽車で5里、樹明居-小郡-

文字通りの一文なし、といふ訳で、富田、戸田、富海行乞、駅前の土産物店で米を買うていただいて小郡までの汽車賃をこしらへて樹明居へ、因縁があつて逢へた、逢ふてうれしかつた、逢ふだけの人間だから。
街の家で飲んで話した、呂竹、冬坊、俊の三君にも逢つた、呂竹居に泊る、樹明君もいつしよに。
戸田ではS君に逢ひたくてたまらなかつた、君は没落して大連にゐるのに。
椿峠で二人連れのルンペンに逢つた、ルンペンらしいルンペンだつた。
今日の行乞相は90点以上。
防府を過ぎる時はほんたうに感慨無量だつた。
樹明居は好きになつた、樹明君が好きになつたやうに。

※表題句の外、17句を記す

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Photo/周南市と防府の境の椿峠あたりから富海の海を望む

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Photo/富海宿の本陣跡


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2010年12月17日金曜日

ふるさとの夢から覚めてふるさとの雨

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―日々余話― Soulful Days-44- 事の本質とは
この稿は、今年3月に書きかけていたのを補綴し言挙げするものである。

交通法規以前の、法以前の、事の本質というものを考える
たとえば、小沢一郎問題、
仮にこのまま政治資金規正法等からは罪に問われず落着したとしても、これはやはり、悪徳きわまるものと受けとめざるをえない。それが事の本質だ。
新生党や新進党あるいは自由党と、立党解党を繰り返したはてに、政党交付金の余剰を5億あるいは6億と懐にしたと巷間伝えられる。立証は出来ないがさりとて逆の証明もできない、疑いなく事実であろう、と世間はみなそう考えている。政党交付金という国民の血税をも含めたカネが原資となって、10億の不動産へと化け、陸山会に帰属せしめているという事実、しかも政治資金管理団体は不動産を登記できないから、小沢一郎名義の登記物件だ。
これらを決して私しない、と検察特捜部に一筆取られたというから、政治資金管理団体陸山会への帰属は動かせなくなるだろうが、小沢はそんなこと端から百も承知、私することなど要せず、どこまでも陸山会所有のままでよい、これら不動産が政治団体帰属であるなら、小沢一郎個人の登記物件であろうとも、個人財産として相続税の対象にはならない、政治団体はただ継承されるものなのだから、仮に小沢の親族が後継となれば、不動産もろともそっくりそのまま引き継がれることになる。
法にはかからぬが、こんな全容を知れば、いやおおかたの国民はすでにそんなものかと推量していようから、多くの人がこんな悪はないと思っているだろう。

さて、RYOUKOを死に至らしめた事故の、事の本質とは‥
現場は中央大通りという阪神高速の高架も走る広い道路、速度制限は60km/h、その辰巳橋南詰交差点内、
RYOUKOを乗せたタクシー-M車-が最徐行しながら、右折から直進行為に入った時、直進の対抗車-T車-が後部左側に激突した。衝突時、直進車の速度は時速70km/hだったと推定され
ている、制動操作はまったく間に合わなかったのか否か‥。
交通法規においては、直進車優先の原則があるが、午後8時15分頃という事故発生時において、この直進車が無灯火であったり脇見運転であったりすれば、どういうことになるか。
そういった法以前の、事実関係のみでいえば、最徐行で右折から直進へと移行しつつあったM車に、その横合いからTが急ブレーキも間に合わないままぶつかってきたもので、このとき、正確には衝突の1.0秒前から1.5秒前、T車は次の瞬間に起こる出来事を予知できている訳である。一方、MがぶつかりくるT車にどの時点で気づきうるかと考えると、T車が前照灯を灯火していれば、横合いからとはいえ迫り来るその灯りを2秒前にも気づくことはありうるが、仮に無灯火であった場合にはぶつかってくる瞬間まで気づきえないことになる。ましてや乗客であったRYOUKOにとってはまったく無防備なままに激突の衝撃をまるごと受けることになる。
もはや避けえない衝突を、ほんの一瞬とはいえ直前に予知できたT車の運転手は、次の瞬間に起こる衝撃に対し咄嗟に身構えることも出来るが、M車の運転手とその乗客RYOUKOにとっては、そのわずかな抵抗すら、咄嗟に怯むことさえ不可能である。
この違い、この差は、決定的に大きなものではないだろうか、と私は思う。

この事故を考えるとき、私は過去の私自身の経験のなかでの二つの出来事を思い出さずにはいられない。
ひとつは、まだ幼い頃の遠い昔のこと、私が小2の時であった。朝、学校へ登校してまもない始業前の時間、たくさんの児童が運動場で遊んでおり、何をしていたか記憶にないが、私も校庭に居た。そこへ突然、背後から強い衝撃に襲われ転倒、固い地面に頭部を打ってそのまま気絶してしまったのである。
当時、上級生の男子ならほとんどだれもが遊んでいた、軍艦ごっことか水雷・艦長と呼ばれた遊び、これに興じて走り回っていた6年生の男子が、なにかほかに気を取られていたからだろうが、私にぶつかってきたというのが事の経緯だった。
気を失ったまま眠り込んでしまっていた私が、気がついたのは1時間後だったかそれとも2時間後だったか、気がついたとき真っ先に眼に映ったのは、私の顔を心配そうに覗き込んでいる次兄-当時6年生だった-の姿だった。

もう一つは、私が40歳を過ぎたばかりの頃、居眠り運転で自身が乗っていた車を大破させてしまった事故のことだ。当時の私は自宅で小さな学習塾をしていたのだが、収入も心許ないことから深夜のアルバイトを始めてまだまもない頃で、たしか2週間目くらいだったと記憶する。私が運転していたのは積載1屯の保冷車、時間は午前0時を30分もまわっていたろうか、梅田の北側のコンビニに配達をして次の店に向う途中、高速の高架下を走っていたのだが、睡魔に襲われフッとなっては眼を凝らすといったことが二、三度繰り返されただろうか、ハッと気がついたとき暗い前方に停車している大きな車-ダンプ車だったか工事用の大型車両だったか-が眼に入った、大慌てで急ブレーキをかけたがもう間に合わない、ガシャーンと金属音をたてて衝突、運転していた保冷車は大型車の後部へめり込むようにへしゃげて止まった。ほんの数秒気を失っていたと思うが、ペシャンコになった運転席で気がついた私は、容易に身動きはならないのだが、身体にはほとんど異状がない、車前部大破で保冷車はそのまま廃車となった損傷の大きさに比して、軽い打ち身や擦り傷はあったものの五体満足、ほんの一瞬の差で大怪我ともならず命拾いをしたのだった。

この二つの事例からみても、能動的に自らぶつかりゆく者と受け身的にぶつけられる者、その違いが事故の衝撃によって受ける損傷において、被害の度合を大きく分け隔てることにもなるのは明白だろう。
ぶつかり来たった者=Tは、その一瞬先に起こる衝撃に対し、身を挺しつつぶつかりゆくのであり、ならばこそその衝撃に比し軽傷で済む場合は多々あり得るが、ぶつけられた者=RYOUKOは、まったく不意を突かれることであってみれば、その激しい衝撃を100%そのまま身に蒙らざるを得ないのだ。

それが、この事故の、法以前における、事の本質なのだ、と私は思う。
RYOUKOを帰らぬ人としてしまった直接の原因は、脳外傷による急性の硬膜下出血であり脳浮腫であったが、治療にあたった医師の説明によれば、他に、肝臓部に外傷、脾臓にも傷痕、ともに変色がみられ、左胸部肋骨の上部に骨折、骨盤の仙骨部左右が骨折、右脚部膝下部位に骨折、と身体の各所に異状や損傷が見られたという、その衝撃の凄さと悲惨さを物語るものであった。

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

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―山頭火の一句― 行乞記再び -128
5月8日、雨、しようことなしの滞在、宿は同前。

終日読書静観、ゲルトがないと坊主らしくなる。
同宿4人、みんな世間師だ、世間師はそれぞれ世間師らしい哲学を持つてゐる、話してもなかなかおもしろい、世間師同士の話は一層おもしろい-昨日今日当地方の春祭だから、それをあてこんで来たものらしい-。

痔がいたむ、酒をつつしみませう。
この宿のおかみさんはとても醜婦だ、それだけ好感が持てた、愛嬌はないが綺麗好きだから嬉しい。
世間する、といふ言葉は意味ふかい、哲学するといふ意味のやうに。

※表題句の外、2句を記す

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Photo/厳島の合戦で毛利元就に敗れた陶晴賢の居城だった周防若山城跡、二の丸から市街地を望む

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Photo/陶の道とよばれた嘗ての武者道は、徳山の陶氏居館跡とをつなぐ


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2010年12月15日水曜日

バスが藤の花持つてきてくれた

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―日々余話― Soulful Days-43- これで終り?

先の11月29日午後2時、損害賠償請求の民事訴訟における最後の公判期日。
この日も前々回に続いて、一方の被告T.K本人が出席した。無論、過保護な親の意向が強く働いていたこととはいえ、これまでは親任せ、代理人任せにしていた訴訟ごと万事が、最後の最後になって、和解調停の解決へと運ぶ関門として、遺族と対面して直々に詫びの言葉を、という裁判官からの要請によって、やむなく公判の席に臨んだ9月のときから、自己の社会的責任において否応もなく逃れえぬ最低限のこと、そんな場面に初めて彼は立たされた訳だし、その延長として自ら出席することを選択して来たのだろう。

数日後、K弁護士から、この日の公判で成立した和解条項の、正本の写しが送られてきた。
<和解条項>
1. 被告両名は、原告らに対し、本件交通事故に基づく損害賠償債務として、連帯して、既払金を除き、合計××万円の支払義務があることを認める。
2. 被告両名は、原告らに対し、連帯して、前項の金員を平成22年12月30日限り、原告ら代理人の指定する下記記載の銀行口座に振込んで支払う。ただし、振込手数料は被告両名の負担とする。
3. 被告M株式会社と被告T.Kとは、本件事故の過失割合が、訴外M.M7割、被告T.K3割であることを相互に確認する。
4. 原告らは、被告両名に対するその余の請求をいずれも放棄する。
5. 原告ら、被告両名及び利害関係人は、原告らと被告両名との間及び原告らと利害関係人株式会社Nとの間において、本件交通事故に関し、本和解条項に定めるもののほか、何らの債権債務のないことを相互に確認する。
6. 訴訟費用及び和解費用は各自の負担とする。

これで刑事民事双方に及んだ訴訟事は、すべて終り、幕は降りたのだ。
RYOUKOがその命を落とすこととなった事故の顛末は、顛末という限りにおいては、その事故の当事者、M.MとT.K双方の、それぞれの向後の人生に降りかかる軛の重さ、その軽重に、その明暗にどう考えても不条理としか思えぬ大きな差違を残しながら、すべて終ったのである。
そしてわれわれ遺族、同じ遺族とはいえ母のIkuyoと父の私は、すでに一つの家族として共にはなく、IkuyoにはIkuyoの孤独な軛が、生きている限り逃れえぬものとしてのしかかり、ただひたすら哭くしかない日々がずっと続くのだろう。
そう、彼女には、同じ<な>く行為だとしても、<哭>という表記がふさわしい、と思われる。
そして私はといえば‥。

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

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―山頭火の一句― 行乞記再び -127
5月7日、晴、行程2里、福川、表具屋

ほがらかに眼はさめたのだが、句会で饒舌りすぎ、夜中飲みすぎたので、どこかにほがらかになりきれないものがないでもない。
さうさうとして出立する、逢うてうれしさ、別れのつらさである、友、友の妻、友の子、すべてに幸福あれ。
富田町行乞-そこは農平老の故郷だ-、そして富田よいとこと思つた、行乞相は満点、いつもこんなだと申分ない。

けさ、立ちぎはの一杯二杯はうれしかつた、白船老の奥さんは緑平老の奥さんと好一対だ。
ここまで来るとS君のことが痛切に考へられる、S君よ健在なれ、私は君の故郷を見遙かしながら感慨無量、人生の浮沈を今更のようにしみじみ感じた。

此宿は飴屋の爺さんに教へられたのだが、しづかできれいで、気持ちよく読んだり、書いたりすることが出来る、それにしても私はいよいよ一人になつた。

※表題句のみ記す

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Photo/富田は現在の周南市富田だろう。この町には中央に大きな風車を設置した永源山公園がある

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Photo/その永源山公園から周南市街地や瀬戸内海を望む

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Photo/公園から西南の麓には山崎八幡宮があり、その節分祭風景


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2010年12月14日火曜日

そよいでる棕櫚竹の一本を伐る

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―表象の森― <見る>ことを超え出て
辻邦生ノート「薔薇の沈黙-リルケ論の試み」より –参-

<見る>とは、対象の外-前-に立って、対象をそこに現前させることだ。<見る>行為は、その意味では、対象-世界-を現象として浮かび上がらせるが、対象から離れることはできず、むしろ対象に依存-従属-している。いかに視覚が働こうと、事物がなければ何も見ることはできない。同時に、最後まで自己性を超えられないゆえに<見る人>は<対象>-世界-の前に立つのであり、対象-世界-と外面的な関係を持つに過ぎない。世界とのいかなる内的関係も失って、世界自体の合理性の上に築かれた<近代>社会では、人間は<見る人>であることを強いられる。誰もが<見る>以上のことはできない。だが、それは人間が根源的に排除・疎外されている証拠でしかない。

「マルテの手記」以来、リルケが<愛する女><内から外へ溢れる薔薇><天使>の映像で<純粋意欲>―欲求対象を決して所有しない、自己性を克服した純粋活動としての意欲―を追求したのも、ただひたすら近代人を孤独と窮乏の中に投げこむ<近代>を克服するには、それによるほかに方法はないと、確信できたからだった。というより、リルケがパリの孤独と<誰のでもない死>から自らを救い出そうとして苦悩するあいだに、救済の道としてみえてきたのが、この休止することのない<純粋意欲>だったというべきだろう。それはニーチェの「力への意志」とほとんど同質の「生への意欲」といっていいものであった。

この<純粋意欲>が「転向」では<愛>という言葉でよばれている。<見る仕事>が終り<心の仕事>を始めなければならないとは、<見る>ことが宿命的にもつ「物の外にあること」と「物への依存」を超えてゆくことにほかならない。そしてそれは<見る>ことの制約を確認することから始まる。「転向」における「見ることには一つの限界がある」と「よく見られた世界は/愛のなかで栄えたいと願う」という詩句は、リルケが直覚した<見る>の限界の一地点を示している。それからあとは、<見る>営みが「物たちが愛のなかで栄える」ことを目ざして、<愛>の力を借りつつ自己超克してゆくプロセスとなってゆく。<見る>はこうして「物の外にある」ことを超えて「もののなか」へと入ってゆく。「外」とは、近代人の無関心、いかなる熟視も内側に抱え込んでいる無関心のことだ。「転向」において「それらは/お前が擒にしたものでありながら さて、お前はそれを知ってはいない」と表現されている近代人の無知のことだ。それを愛の熱情で溶かし、無関心の原因である自己性を解体・超克してゆく。

青空を見るとき、われわれは単に青空がそこにあると思うにすぎない。家を見るとき、単に家がそこにあると思うにすぎない。だが、<見る>を超えた感受にとっては「青空」は何かそれによって心をときめかせるものとなる。「家」は寛ぎと強く結びついた存在となる。すくなくとも、それはただ空が青いという現象的事実ではなく、その青さによって絶えず無限の物想いを語りつづける存在となる。それは時にゴッホの画面に深く沈むオーベールの麦畑の上の青空のように、無限の悲しみを語りつづける。またセザンヌの「大水浴」の遠い青空のように地上の悦楽の極点にある至福を象徴する。

ここでは<見る>は「青空という物」の外にあるのではないし、その現象的事実に従属しているのでもない。逆に、そこに「青空」という新しい現実を生みだし、われわれはその中に入り、無限の内容を生き始めるのだ。「青空」はもはや現象的事実ではなく、感受力は現象する青空の単一性を超え、そこに無限に開かれる青空の映像を映してゆくことになる。それは喜びから悲しみまであらゆる調音を響かせるが、その根底には存在の歓喜が横たわっている。なぜなら<見る>を超えた感受力は、何よりも、存在に内在する生命力と交歓するからだ。それはパリ時代のリルケがロダンのなかに鋭く見出していったものであった。

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

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―山頭火の一句― 行乞記再び -126
5月6日、曇、后晴、ふつてもふいてもよろしい白船居

悠々として一日一夜を楽しんだ、洗濯、歓談、読書、静思、そして夜は俳句会へ。
糞ツ南無阿弥陀仏の話はよかつた、その「糞ツ」は全心全身の声だ、合掌して頂戴した。
句を拾ふーこんな気持にさへなつた、街から海へ、海から森へ、森から家へ。
――
棕櫚竹を伐つて貰ふ、それは記念の錫杖となる。
よく話した、よく飲んだ、よく飲んだ、よく話した、そしてぐつすり寝た。

※表題句の外、11句を記す

久保白船は、山頭火と同様に句誌層雲の同人、また選者としても活躍した。後の昭和15年、山頭火が四国松山の一草庵で急死した際、報せを聞いて駆けつけ、遺体を荼毘に付したという生涯の友。その彼もまた翌年に急逝している。

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Photo/白船が住んでいたのは現在の周南市徳山、その岐山地区に白船の句碑が立つ

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Photo/白船の生地は、周南市よりさらに南東部の平生町、その沖合に浮かぶ佐合島。


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2010年12月12日日曜日

あざみあざやかにあさのあめあがり

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―表象の森― リルケにとってのロダンとセザンヌ

・辻邦生ノート「薔薇の沈黙-リルケ論の試み」より –弐-

リルケはマルテと一体化することによって、<近代>の空虚な生を徹底的に経験することになるが、同時に、その空虚な拡がり・深化のなかで、それに匹敵する強度をもって、それを克服する力-求心力-を探求しなければならなくなる。
いわばこの圧倒的な水圧に抵抗して、必死で克服するプロセスが、リルケを単なる詩人から、「ドゥノイの悲歌」の詩人へと鍛え上げてゆく。というのは、問題の全体を意識しうる地点に登高する苦悩に満ちた過程で、リルケはマルテと別れ、自ら生き残る道を見出し、同時に、それが後期の詩的世界へつながることになるからだ。

この<近代>の空虚化・疎外化する生を克服するとは、リルケ=マルテにとって、生の内実・プロセスを、内側から満たすという形による快復に他ならない。それは<近代>の要求する業績-仕事の成果-万能主義に対して、仕事のプロセスこそが意味を持つとする生き方の確立だった。「ひたすら活動しつつ決して自己意識に戻らず、全的に外に向って開いた精神」―それこそがリルケ=マルテが願った生き方だった。外に向って<働く>けれど、<働いた結果>を顧慮しない意識、<見る>けれど、<見られる>ことを期待しない意識、<愛する>けれど、<愛される>ことを乗り超えた意識―それが<近代>の空疎化された生を、根底から逆転する道だった。

リルケはこの反転の契機をロダンとセザンヌから学んでゆく。それは芸術制作の場だけではなく、時間の性格をも、空間の意識をも、<近代>のそれと決定的に異質なものに変えてゆく。時間でいえば、ロダンの不屈な忍耐力、セザンヌの孤独な持続力は、計量化された<近代>的時間意識からは理解できないし、だいいちそれを実践することなど思いも及ばない。また空間における<近代>性の特徴とは、都市のビルが典型的に示すように、そこから生の内実を消去して、空虚な計量的・幾何学的・非生命的な空間となってゆくことだ。その空間を反転させ、ロダンがいかに豊穣な官能生と精緻な運動感で満たしていったか、彼の多彩な彫刻群を見れば納得がゆく。セザンヌの絵画空間の根源的な透明な重さも同じような空間の生命化の意志から生れている。そこに湛えられているのは「神さまから、永遠のむかし、わたしにつくれと命ぜられた甘美な<蜜>」なのである。この二人は<近代>の空虚化の圧力に抵抗し、心の内部をかかる<生命>の<蜜>で満たしながら、それを孤独な仕事を通して、内から外へ実現-レアリザシオン-してゆく。リルケが「マルテの手記」のなかでマルテと同化しながら一つの典型として示すのは、この<内から外へ>を純粋に徹底して成し遂げた人間たちーすなわち<愛する女>とは芸術家の原型といってもよく、<近代>が歪める以前の、人間の本源の在り方といってもいいものなのだ。それはハイデッガーが「元初の能力、それぞれのものをそれ自身へ集中する能力」と呼んだものであり、「存在者はすべて、存在者として意志の中にある」と規定した「意欲するもの」の根源の姿なのである。

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

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―山頭火の一句― 行乞記再び -125
5月5日、雨、破合羽を着て一路、白船居へー。

埴生―厚狭―舟木―厚東―嘉川―8里に近い悪路をひたむきに急いだ、降る吹くは問題ぢやない、ここまで来ると、がむしやらに逢ひたくなる、逢はなくてはおちつけない、逢はずにはおかない、といふのが私の性分だから仕方がない、嘉川から汽車に乗る、逢つた、逢つた、奥様が、どうぞお風呂へといはれるのをさえぎつて話しつづける、何しろ4年振りである。―

今日ほど途中いろいろの事を考へたことはない、20数年前が映画のやうにおもひだされた、中学時代に修学旅行で歩いた道ではないか、伯母が妹が友が住んでゐる道ではないか、少年青年壮年を過ごした道ではないか-別に書く-。

峠を4つ越えた、厚東から嘉川への山路はよかつた、僧都の響、国界石の色、山の池、松並木などは忘れられない。
雨がふつても風がふいても、けふは好日だつた。
端午、さうだ、端午のおもひでが私を一層感傷的にした。-略-

話しても話しても話しつきない、千鳥がなく、千鳥だよ、千鳥だね、といつてはまた話しつづける。
長州特有のちしやもみ-苣膾-はおいしかつた、生れた土地そのものに触れたやうな気がした、ありがたい、清子さんにあつく御礼申上げる。

※表題句の外、11句を記す

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Photo/西国街道-旧山陽道-の嘉川~厚東間の山路にある熊野神社

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Photo/その街道筋に「どんだけ道」と呼ばれる山路が今に残る


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2010年12月11日土曜日

露でびつしより汗でびつしより

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>―日々余話― Walkingと朝湯

とりあえず三日坊主を克服? Walkingは5日目。
眼が覚めたのは5時、小一時間は読書、東の空が少し明るくなるころ家を出る、玄関ロビーの時計を見ると6時15分だった。
いまのところコースは住吉公園と住吉大社廻り、公園に行き着くまでに15.6分かかる、ぐるりと園内を廻る、園の中央辺りに設置されたスピーカーからラジオ体操の放送が流れ、広い園内のあちらこちらで、延べ数十人くらいだろうか、三々五々体操をしているなかを、此方はただひたすら歩きつづける。
大社の境内も公園に比すほどに広い、初詣などでは太鼓橋を渡って、本殿たる4つの本宮を廻る程度だが、摂社・末社やさまざまな石碑の類、付随の施設など、まあいろいろとあるものだ。
帰り道の粉浜や東粉浜の町は、戦後の区画整理事業の区域外なのだろう、狭い路地ばかりの街並みだから、コースのVariationはいくらでもあり、それもまたよろし。
7時半頃帰宅、きょうは朝風呂をゆったりと堪能、これ極楽々々。

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

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―山頭火の一句― 行乞記再び -124
5月4日、曇、行程8里、埴生、今井屋

行乞しなければならないのに、どうしても行乞する気になれない、それを無理に行乞した、勿論下関から長府まで歩くうちに身心を出来るだけ調整して。

長府はおちついた町で感じがいい、法泉寺の境内に鏡山お初の石塔があつた、乃木神社二十周年記念の博覧会-と自称するもの-が開催されてゐた、それに入場する余裕もないし興味もないので小月まで、小月では宿といふ宿から断られた、しようことなしにここまで歩いた、電灯がついてから着いて、頼んで泊めて貰つた、何といふ無愛想な、うるさい、けちな宿だらう!-しかし野宿よりはマシだ、30銭の銅貨は泣くだらうけれど-

どこへ行つても日本の春は、殊に南国の春は美しい、美しすぎるほど美しい。

※表題句の外、3句を記す

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Photo/室町の大内氏、戦国の毛利氏らの城下町長府には著名な神社仏閣が多い、その内の一、攻山寺は奇兵隊の高杉晋作決起の寺としても知られるが、写真はその参道。

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Photo/長府の街並み古江小路の風景

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Photo/毛利綱元建立の覚苑寺にある狩野芳崖の像


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2010年12月9日木曜日

晴れておもひでの関門をまた渡る

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―表象の森― 森そのものが神だった

岡谷公二「原始の神社をもとめて」は、副題の「日本・琉球・済州島」が示すように、海洋でつながる朝鮮半島や沖縄諸島、あるいは北九州及び近郊の島々などに伝わる古層の神々のかたちに、さまざまに共通なものを見出していく旅といったもので、刺激的な知見が随所にみられる地道な労作。

以下、本書の目次各章に掲げられた小見出しを網羅すれば、その射程のひろがりと具体的な個々の内容がかなりの部分想像できようか。

1.済州島の堂との出会いー堂という聖地/済州島へ/蜜柑畑の中の堂/島の北西岸の堂/海女の村々/忘れ難い堂
2.韓国多島海の堂―閑麗水道の島々/智島の堂の森/祭天の城あとと乙女の亡魂を祭る堂/羅老島の馬神/済州島とほかの島々の堂との相違
3.済州島の堂とその祭―堂の種類とその立地/堂に祀られる神々/司祭者神房/ピニョムとクッ/迎燈祭
4.沖縄の御嶽―御嶽の発見/御嶽に残る古神道の俤/社殿のない神社/神社と女人司祭/御嶽の神社化/斎場御嶽/琉球王国の神女組織/御嶽のありよう/御嶽の起源
5.済州島と琉球―済州島と日本/済州島・琉球・倭寇/済州島と沖縄の相似/済州人の沖縄漂着/琉球人の済州島漂着
6.神社と朝鮮半島―渡来人が祀った神社/奈良―三輪神社その他/京都―賀茂神社、平野神社、松尾大社、伏見稲荷、八坂神社/伊勢神宮と朝鮮半島/堂信仰のあらまし/堂と神社
7.神社をめぐるいくつかの問題1-縄文・弥生と神社―神社の起源は縄文時代か/神域内に縄文遺跡のある神社/諏訪信仰の問題/弥生時代と神社/縄文土偶をめぐって
8.神社をめぐるいくつかの問題2-神社は墓かー死穢観念の成立/古墳の上に建つ神社/裏手に古墳のある神社/山頂や山の中腹の古墳を祀る神社/名高い神社と古墳/御嶽葬所起源説/堂と墓
9.聖なる森の系譜―貝の道高麗瓦その他/対馬の天道山/ヤボサ神/薩摩・大隈のモイドン/種子島のガロー山/トカラ列島の女人司祭/奄美の神山/藪薩の御嶽
付.神社・御嶽・堂-谷川健一氏との対話―済州島というトポス/堂の祭/御嶽の発生/聖地とは何か/御嶽の聖性/対馬の問題/五島列島と済州島/問いとしての御嶽

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

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―山頭火の一句―
行乞記再び -123
5月3日、晴、行程7里、下関市、岩国屋

よい日だつた、よい道づれもあつた、11時頃小倉に入つた、招魂祭で人出が多い、とても行乞なんか出来さうにないし、また行乞するやうな気分にもなれないので、さらに門司まで歩く、ここから汽船で白船居へ向ひたいと思つてゐたのに、徳山へは寄港しないし、時間の都合もよくないので、下関へ渡つていつもの宿へおちつく、3時前とはあまりに早泊りだつた。
同宿十余人、同室弐人、おへんろさんと虚無僧さん、どちらも好人物だつた。-略-

関門を渡るたびに、私は憂鬱になる、ほんたうの故郷、即ち私の出生地は防府だから、山口県に一歩踏み込めば現在のわたしとして、私の性惰として憂鬱にならざるをえないのである、といふ訳でもないが、同時にさういふ訳でもないこともないが、とにかく今日は飲んだ、飲んだだけではいけないので、街へ出かけた、亀山祭でドンチヤン騒ぎ、仮装行列がひつきりなしにくる。‥
-略-

※表題句の外、4句を記す。

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Photo/下関市中之町の、関の氏神こと亀山八幡宮

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Photo/境内から鳥居越しに望む関門海峡


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