2010年9月29日水曜日

おわかれのせなかをたたいてくれた

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―世間虚仮― 恫喝外交中国のバブル危機

中国人船長逮捕の尖閣諸島沖事件、中国のあの手この手の恫喝に船長釈放をしてしまった政府に対し、国内では非難囂々の嵐だが、恫喝するだけしておいて目下の利を収めた中国はさっさと矛を収めようとしているようで、さすが眼も鮮やかな恫喝外交というところだが、中国の国内事情、バブル崩壊の危機は、もうそれどころじゃないのではないか。

いまだ大都市圏で建設ラッシュが続き、林立する高層マンションでは50%以上の空室が常態といわれ、延べ8000万もの空室を生み出しているという。この居住者なき膨大な不動産は、なべてひと握りの富裕層たちの投機の対象でしかないわけだ。-その件については此処に詳しい-

それよりも深刻なのは爆発的なエネルギー消費のほうだろう、IEA-国際エネルギー機関-の統計によれば、中国の総消費エネルギーはこの10年で倍増、09年時点において、すでにアメリカのそれを上回り、世界一の消費国となっている。-参照-

これにともなう石油の輸入依存は急速に強まってきた、世界5位の産油国でありながら、93年に純輸入国へと転落して以来、急激な原油輸入の拡大は、やがて中国発のオイルショックを招いては、世界中を恐慌の嵐に巻き込んでしまうだろう。

―山頭火の一句― 行乞記再び -107
4月17日、花見日和、午前中行乞、宿はおなじく

わざと中洲-福岡市に於ける第一流の小売商店街-を行乞した、行乞相はよかつたけれど、所得は予想通りだつた、2時間で15銭、まあ百軒に一軒いただいたぐらゐだらう、いただかないのになれて、いただくと何だかフシギなやうに感じた。

大浜の方は多少出る、少し歩いて、約束通り酒壺堂房を訪れる、アルコールなしで、短冊60枚ばかり、半切10数枚書いた-後援会の仕事の一つである-、悪筆の達筆には主客共に驚いたことだつた、折々深雪女来訪、酒がまはれば舌もまはる、無遠慮なヨタはいつもの通り、夕方、酒君と共に農平居を襲ふ、飲んだり話したり、山頭火式、農平式、酒壺堂式、10時過ぎて宿に戻る、すぐ、ぐつすり寝た。

どうも近来飲みすぎる、友人の厚情に甘えるのもよくないけれど、自分を甘やかしてもよくない。-略-

※表題句の外、1句を記す

大浜地区は、博多駅前から大博通りを海岸のほうへ行った、呉服町や大博町の界隈。

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Photo/その大浜で8月下旬に行われる流灌頂祭りの大武者絵灯籠

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Photo/祇園山笠が行われる櫛田神社は、祇園町近くの上川端町にある


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2010年9月27日月曜日

昼月に紙鳶をたたかはせてゐる

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―日々余話― バイオフィルム

いくつか購読しているメルマガのなかに、たしか以前にも触れたことがあるが、(財)生物科学研究所の主任研究員を務めるI.A氏による「明快!森羅万象と百家万節の系譜」というのが、毎週土曜日に配信されている。
普段、あまり熱心な読者ではないのだが、最新号の「生体防衛論」のなかで話題に供されていた「バイオフィルム」の語に眼が惹かれた。以下、その一文から引用させていただく。

「多細胞生物のような細菌社会」
-細菌も目に見えるような巨大な社会を作り上げる-
小さな細菌が目に見えるような巨大な社会を作り上げることがわかってきました。バイオフィルムと呼ばれます。原始の海ではバイオフィルムのような 原核生物の社会が存在していたのではないでしょうか。
バイオフィルムとは微生物が排泄するスライムで包まれた微生物の集合体です。無生物もしくは生きた表面に付着しています。歯の上に付いたプラー ク、パイプのヌルヌル、花を1週間いけておいた花瓶の内部のゲル状の薄膜など。
バイオフィルムは水があるところならどこでも、台所でも、コンタク トレンズでも、免疫力が弱っていれば、動物の腸にもできます。自然界の細菌の99%以上はバイオフィルム社会に住んでいます。ほとんどの細菌は無害です。
中には有益な働きをする細菌もいます。たとえば、汚水処理プラントはバイオフィルムの働きで水から汚染物を除去します。一方、問題も起こします。 バイオフィルムは金属性のパイプを腐食させたり、水フィルターを詰まらせたり、病院でインプラント(留置器具)の拒絶反応を起こしたり、飲料水を 汚染させる細菌を保持します。
微生物学者は病原菌をターゲットにしてきましたから、伝統的に実験室内の培地に発育する細菌に焦点を当ててきました。菌を分離して、純粋培養した 菌を感染させることで病気が起こることを確認します。コッホの三原則といいます。ワクチンを作るにも菌を純粋培養する必要がありました。しかし、 微生物学者は最近になって自然界では多くの細菌はバイオフィルムとして集って暮らしていることに注目しています。培地の中とバイオフィルムの中では細菌の振舞いは異なっています。

-細菌は多様な環境下で生きるための仕組みを持っている-
微生物はきれいな水に落ちるといった飢餓状態に直面すると、固体表面への親和性を高めるために細胞壁の構造を変化させます。外膜のタンパク質と脂質の構成を変化させ、細胞壁を疎水性にします。疎水性の細菌表面はプラスチックのパ
イプ表面に引きつけられます。
細菌は持っている遺伝子セットの中から、環境の変化に合わせて異なるセットの遺伝子のスイッチを入れて変身します。たとえば、菌がガラスにつく と、アルギン酸塩(スライムの粘着性物質)の合成に関与する遺伝子にスイッチが入り、細菌がアルギン酸塩に取り囲まれるとそのスイッチを切りま す。固着菌と浮遊菌とでは、細菌細胞壁に存在するタンパク質のうち、30~40%が異なっています。
大腸菌の遺伝子は約4000ありますが、培養液で増やす場合、そのうちの半分しか使いません。つまり、半分あれば基本的な増殖ができるわけです。 残りの半分は何のためにあるのでしょうか。現在の仮説では多様な環境下に適応するための遺伝子であると考えられています。多様な環境下とは、他の 生物体内、清浄な環境下、捕食者の多い環境下、低温、高温。乾燥状態などです。いままでの細菌学は実験室内での分離培養に力点が置かれていたた め、これらの遺伝子の存在自体がわかっていませんでした。

-細菌もコミュニケーションする-
バイオフィルムのような複雑な社会を作るにはコミュニケーション分子が必要です。細菌のコミュニケーション・システムをクオラム・センシングと呼 びます。細菌には目も耳もないですから、コミュニケーションには水に溶ける分子が使われます。たとえば、細菌はシグナル分子(オートインデュー サ-autoinducer)の量を測ることで、自分達の細胞密度を感知できます。
Autoinducerはビブリオ属細菌における菌数依存的な蛍光物質の生産という現象から見つかりました。緑膿菌をはじめとする多くの病原細菌がクオラ ムセンシングを用いて病原因子の発現をコントロールしていますし、autoinducer分子が生体細胞に対しても多彩な影響を及ぼすことが報告され、菌側と生体側の両面から感染症の発症に関与することがわかってきました。

人間に限らず、脊椎動物は腸内やそのほかの粘膜にたくさんの細菌が棲みついています。お互いの存在が、お互いの利益になっている=相利共生が成 り立っていると、細菌と人間が共同生活をしていることになります。ゲノムの面から俯瞰すると、進化(遺伝子の変化)が急速な細菌ゲノムと、ゆっく りとした人間ゲノムがお互いに助け合って、地球環境の変動に立ち向かい、うまく立ち回っているように見えます。時にはけんかすることもあります。 人間と細菌叢はユニークな生態系(ecology)を形成し、共に進化(co- evolution)しているのでしょう。


―山頭火の一句―
行乞記再び -106
4月16日、薄曇、市街行乞、宿は同前

福岡は九州の都である、あらゆる点に於て、-都市的なものを感じるのは、九州では福岡だけだ。
今日の行乞相はよかつた、水の流れるやうだつた、-まだ雲のゆくやうではないけれど-、しかし福岡は-市部はどこでも-行乞のむつかしいところ、ずゐぶんよく歩いたが、所得はやつと食べて泊つて、ちよつぴり飲めるだけ。
一銭、一銭、そして一銭、それがただアルコールとなるばかりでもなかつた、今日は本を買つた、-達磨大師についての落草談-、読んで誰かにあげやう、緑平老にでも。

春を感じる、さくらはあまり感じない、それが山頭火式だ。
夜は中洲の川丈座へゆく、万歳オンパレードである、何といふバカらしさ、何といふホガらかさ。
-飲んだ、歩いた、歩いた、飲んだ-そして今日が今夜が過ぎてしまつた、ただそれだけ、生死去来はやつぱり生死去来に御座候、あなかしこ。

夜は万歳を聞きに行つた、あんまり気がクサクサするから、そしてかういふ時にはバカらしいものがよいから、-可愛い小娘がおぢさんおぢさんといって好意を示してくれた。
世の中味噌汁! 此言葉はおもしろい。
今夜、はじめて蕨を食べた、筍はまだ。

※表題句の外、2句を記す

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Photo/寄席の川丈座は、中洲の川丈旅館の隣にあったという

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Photo/屋台が建ち並ぶ現在の中洲夜景


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2010年9月23日木曜日

松風のゆきたいところへゆく

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―表象の森― 韋駄天商店街

狭いアーケードの中に設えられた直線のトラックを、老いも若きもアスリートたちが、それぞれの記録をかけて駆け抜ける-韋駄天商店街は、今日23日、12時から開始、今年で4回目か。

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今年は「韋駄天尊像」がお目見得する、平城遷都1300年のマスコット「せんとくん」をデザインした藪内佐斗司に制作を依頼し、出来上がったもの、という。

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夕刻からは、その韋駄天さんを囲んで、繁栄韋駄天尊祭りも催されるのだが、そこにデカルコマリィの一味も出没することになった。

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朝から嵐のような雨だが、はて、いかさまどんなことになるやら‥。


―山頭火の一句― 行乞記再び -105
4月15日、夜来の雨が晴れを残していつた、行程2里、福岡へ予定の通り入つた、出来町、高瀬屋

この町-出来町-はヤキとヤキを得意とする店ばかりだ-久留米の六軒屋と共に九州のボクチン代表街だ-。
早く起きて松原を散歩した、かういふ旅にかういふ楽がある。

午前中の行乞相はよくなかつたが、午後のそれはよかつた、行乞もなかなかむつかしいものである。
山吹、連翹、さつき、石楠花、-ことしはじめて見る花が売られてゐた。
博多名物-博多織ぢやない、キツプ売-電車とバス-、禁札-押売、物貰、強請は警察へ-、と白地に赤抜で要領よく出来てゐる-西新町のそれはあくどかつた、字と絵とがクドすぎる-。

西公園を見物した、花ざかりで人でいっぱいだ、花と酒と、そして、-不景気はどこに、あつた、あつた、それはお茶屋さんの姐さんの顔に、彼女は欠伸してゐる。
街を通る、橋を渡る、ビラをまいてゐる、しかし私にはくれない、ビラも貰へない身の上だ、よろしい、よろしい。
酒壺洞君を搾取した、君は今、不幸つづきである、君に消災妙吉拝。‥
さくら餅といふ名はいい、餅そのものはまづくとも。

此宿はよい、何となくよい、-略-、今日もよい日だつた、ほんたうにほどよい日だつた、ほどよく酔ひ、ほどよく眠つた。
よい食慾とよい睡眠、これから人生の幸福が生れる。

※表題句の外、6句を記す

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Photo/出来町公園は旧博多駅のあったところ、「九州鉄道発祥の地」の碑がある

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Photo/公園内にある白い桜の樹


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2010年9月22日水曜日

すこし濁つて春の水ながれてくる

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―日々余話― 息抜きの小旅行

息抜きといっても、日頃息抜きばかりのような私自身には要らぬもの。
元来気質として対人恐怖症的な一面をもっている連合い殿の、それなのに仕事は対人の応接、サービス事業が主体で、それも些か責任ある立場におかれては、おそらくは同僚たちより倍して自身を鼓舞、強いなければならないだろうから、彼女にとっては時折の息抜き・ガス抜きが欠かせないものとなる。
そこで気は心、ないよりはましの、一泊の小旅行を、急場しのぎのように、この三連休に挟み込んだ。
とにかく企図したのがつい2週間ほど前、思うようには宿泊先もとれないから、友人の力を頼みとした。急遽押さえてもらったホテルは、嘗て彼自身が総支配人として君臨したというもの、顔の利かない訳はない。

日曜-19日-の稽古を終えてから、そのホテル-草津-へと直行、1号線から京滋バイパスをとったからか、思ったよりスムーズに走行、早々と4時過ぎにはホテルに着いた。
ゆったりまったりと寛いだ後、夕食に外へと出た。食事を終えてもまだ7時前という宵の口、此処、JR草津の西口駅前は東口に比べて新興の街並みなのだろう、その街路を少し散策してから、A-SQUAREなる大きなショップセンターに入っていく。なにしろ駐車場3000台を収容するというから、かなりの規模の複合施設。こういう類を目的もなく散策するなど、初老の男にとっては、あまり時間持ちのしないものだが、女と子どもにとってはけっこう楽しめるものらしい。結果、2時間近く過ごしてしまったか。

翌朝-20日-、ゆるりと10時前に出立。琵琶湖畔に沿って車を走らせ、先ずは近江八幡の八幡堀界隈へ。いわゆる近江商人発祥の町並を散策というもの。「近世畸人伝」を著したという伴蒿蹊ゆかりの、明治には小学校や女学校にも使われたという壮大な3階構造の旧・伴家住宅、平屋造りだが、その広い平面を、商いとしての公と居宅としての私をいかにも合理的に分割構成した間取りをもつ旧・西川家住宅など。
文化財保護法の改正によって「伝統的建造物群保存地区」の制度が発足したのは昭和50年だったそうだ。修理修景費用や関連費用に国からの補助金がつき、税制優遇措置もあることから、以来、全国各地から相次いで名告りが挙がり、現在では74市町村で87地区、約16,180件の伝統的建造物が保存すべき建造物として特定されているそうな。

次いでさらに足を伸ばして彦根へと向った。彦根城の大手門前筋、「夢京橋キャッスルロード」と名付けられた300m余りの行楽客向けに整備された街並には、ちょいと吃驚させられた。ゆるキャラ「ひこにゃん」の誕生は4年前だそうだが、それより以前、平成11-‘99-年にはほぼすべての整備を終えたという、この些か恥ずかしいような名を冠した街並み、どう考えても長浜の黒壁スクエアの成功に刺戟されてのことだろう。自動車の通行も多く、スローモーにしか進まぬ車中から眺めただけだが、なんだかあざとい臭いが先に立つような光景だった。

その彦根城を少しばかり通り過ぎて、次の目的地、龍潭寺に着いたのは2時頃だったか。石田三成の居城でもあったという佐和山城趾の麓に座すこの寺は、小堀遠州ゆかりの寺というので訪ねてみた。
方丈の南庭は、枯山水で「ふだらくの庭」と称されるという。あの竜安寺の石庭は、大小の石が15個使われているだけだというが、こちらの庭ではその数48個、その数の差が、発想の違いを表し、また造形の違いともなる。この枯山水の作庭は、寺のパンフによれば、小堀遠州ではなく、開山僧の昊天-コウテンと読むか-であるらしい。

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Photo/龍潭寺の方丈南庭、枯山水のふだらくの庭

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奥の書院東庭は、背後の佐和山を借景した「蓬莱池泉庭」と称されるが、こちらはその昊天と遠州の合作とされる。なんとなくわずかに窮屈そうな感じがするのは、地形的条件からくる制約の所為か。
もう一つの瀟洒な庭、書院の北庭は、小さな裏木戸から茶室へと通じる路地の庭といったものだが、文字通り瀟洒なという形容が相応しく、自然で控えめな感じのするものだった。
方丈の裏側には、小さな4つの座敷があり、その3つには、それぞれ襖絵が描かれていたが、これらの絵の作が森川許六とあり、芭蕉の弟子、蕉門十哲にも数えられる許六その人であり、その許六が狩野派の絵師でもあったことは寡聞にして知らなかった。

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Photo/同じく書院東庭、蓬莱池泉庭

帰路もまた琵琶湖畔を走り、石山で京滋バイパスへ、三連休の終日というのに渋滞に巻き込まれることもなく午後6時半無事帰着。

―山頭火の一句― 行乞記再び -104
4月14日、雨となるらしい曇り、行程3里、生きの松原、その松原のほとりの宿に泊る、綿屋

行乞途上、わからずやが多かつたけれど、今日もやつぱり好日。
女はうるさい、朝から夫婦喧嘩だ、子供もうるさい、朝から泣きわめく、幸いにして私は一人だ。-略-

どうでもといはれて、病人のために読経した、慈眼視衆生、福聚海無量、南無観世音菩薩、彼に幸あれ。
今年はじめての松露を見た-店頭で-、松原らしい気分になった、私もすこし探したが一個も見つからなかった。-略-

此宿はよい、家の人がよい、そして松風の宿だ、といふ訳でずゐぶん飲んだ、そしてぐっすり寝た、久しぶりの熟睡だつた、うれしかつた。
途中、潤-うるふ-といふところがあった、うるほさないところだつた。
私は此頃、しゃべりすぎる、きどりすぎる、考へよ。
同宿6人、みんなおへんろさんだ、その中の一人、先月まで事件師だつたといふ人はおもしろいおへんろさんだつた、ホラをふいてエラがる人だけれど憎めない人間だつた。
木賃宿に於ける鮮人-飴売-と日本人-老遍路-との婚礼、それは焼酎3合、ごまめ一袋で、めでたく高砂となつたが、かなしくもうれしいものだつた。

※表題句の外、新句4、再録6句を記す

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Photo/生の松原は現在の福岡市西区

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Photo/生の松原の東側には、今に残る元寇の防塁跡


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2010年9月19日日曜日

春あおあおとあつい風呂

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-日々余話- きしもと学舎だより

些か旧聞になるが、ネパールの「きしもと学舎だより」-vol.12-が8月に出されていたのだが、ここに紹介しておこう。

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2面には彼、岸本康弘の古い詩集-1977年発行というからもう33年も前だ-から一篇の詩が掲載されている。

「地球のヘソのあたりで」

闇を一瞬 光をかえて
夜行列車が走りすぎて行く
それを見送るのが ぼくは好き
闇の底に沈んで行くテールランプを見つめてるのが好き
そう
大地を汽車が走りつづける
数々のロマンや悲しみを創るために
地上をひたすら駆けまわっている

今も生れようとしている
そしてとにかく
生きつづけている
人間・ぼくは生きつづけている
地球のヘソのあたりで
エロスの香りをかぎながら。

ヘソは観念ではない
生きることである
創-キズ-をつくり
血を流し
汗を流し
もだえて
三十何年 生きつづけた今
ぼくは 地球のヘソのありかを知った

歌とは腹の底からうったえる(訴える)ことからきているという
そしてヘソは 体内の神経が集中しているところだという

ぼくは
地球のヘソのあたりで
根限り生きまくる
腹から地声をはりあげて
へたなうたを歌いつづける!

―山頭火の一句― 行乞記再び -103
4月13日、晴、行程2里、前原町、東屋

からりと晴れ、みんなそれぞれの道へゆく、私は一路東へ、加布里、前原を5時間あまり行乞、純然たる肉体労働だ、泊銭、米代、煙草銭、キス代は頂戴した。
今朝はおかしかつた、といふのは朝魔羅が立つてゐるのである、山頭火老いてますます壮なり、か!

浜窪海岸、箱島あたりはすぐれた風景である、今日は高貴の方がお成になるといふので、消防夫と巡査で固めてゐる、私は巡査に追はれ消防夫に追はれて、或る農家に身を潜めた、さてもみじめな身の上、きゆうくつな世の中である、でも行乞を全然とめられなかつたのはよかつた。

初めて土筆を見た、若い母と可愛い女の子とが摘んでゐた。
店のゴム人形がクルクルまはる、私は読経しつづける。
犬ころが三つ、コロコロころげてきた、キッスしたいほどだつた。
孕める女をよく見うける、やつぱり春らしい。
日々好日に違ひないが、今日はたしかに好日だつた。

此宿は見かけよりもよかつた、町はづれで、裏座敷からのながめがよかつた、遠山の姿もよい、いちめんの花桑畑、それを点綴する麦畑-此地方は麦よりも菜種を多く作る-、その間を流れてくる川一すぢ、晴れわたつた空、吹くともなく吹く風、馬、人、犬、-すべてがうつくしい春のあらはれだつた。-略-

酒については、昨日、或る友にこんな手紙を書いた。-
「‥酒はつつしんでをりますが、さて、つつしんでも、つつしんでもつつしみきれないのが酒ですね、酒はやつぱり溜息ですよ-青春時代には涙ですが、年をとれば-、しかし、ひそかに漏らす溜息だから、御心配には及びません。‥」

※句作は表題句のみ

佐賀から福岡へと県境を越えた。

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Photo/福岡県志摩町の陸続きにある箱島神社

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Photo/福岡県前原市、加布里の漁港


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2010年9月15日水曜日

朝ざくらまぶしく石をきざむや

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 ―日々余話― Soulful Days-41- 猿芝居は幕切れ近く‥

9日の夜、障害者の作業所に勤める息子のDaisukeに、やはり福祉関係に従事する若い友人を引き合わせ、三人で2時間半ほど語り合った。まるでタイプの異なる二人だが、年も近いし、意義のある出会いになればと思ってのことだった。
そのお喋りを終えて帰宅したのはもう日も変わろうかというころだったが、そこではたと気がついた。そうだ今日は9月9日、RYOUKOの、あの事故が、起こった夜‥。
それから朝まで、とうとう眠れなかった。いつもは居間の片隅に立てかけてあるままの写真を、その左右に置かれた父と母の写真にもお出まし願い、三人を眼の前に、ただとりとめもなく時を過ごしたのだった。
もう大詰めは近い。これまでいろいろと手を盡してはきたものの、やればやるほどに、却って虚しさばかりを大きくさせてきたような気がする。冷静に考えれば然もあろうと思われるのだが、そのことがまた気鬱の種となる‥。
13日午前10時45分、大阪地裁の9F、細長い楕円のテーブルを挟んで、私とIkuyoはT.Kと対峙した。私にとっては一昨年の12月以来、Ikuyoにとってはまったく初対面の青年は、ウェイクボードのプロ生活にはすでに見切りをつけこれからは研究者の道に歩み出そうとしているのか、日焼けした顔以外、端正に背広を着込んだ姿からはマリンスポーツに興じてきた若者の匂いはすっかりぬけているようにも見えた。
裁判官から提案要請され、裁判官と書記官、双方の弁護士らも同席、囲んだこのテーブルが調停の場と呼ぶには相応しくはないだろう、いわば和解協議に入る前のセレモニー、通過儀礼にはちがいないが、この場において裁判官の抱く心証が、これからどんな和解勧告案を出すことになるのか、その決め手になるのだけは確かだろう。
予定の1時間をこえて70分あまりか、話はさまざまに飛んで散漫に過ぎたようにもみえ、私を苛立たせる場面もいくつかあったが、事故の事実関係の疑惑や、この青年の利己的な不実も垣間見えたのではないかとも思われ、訴訟解決のためにはきわめて有意義なものではあったろう。
最後に、裁判官は、双方の弁護士たちに、次なる和解協議の場を17日の金曜日と決め、この場を閉じた。
これから先、もうこれ以上、私が関与しうることはない、なにもない。否応もなく幕は降りる。
こんな間の抜けたようなクライマックスでいいのか、こんな埒もない猿芝居を見たかったのかおまえは‥。
裁判所から家に戻った私は、空きっ腹に茶漬けをかきこんで、宇治にある黄檗山萬福寺に行くべく、ひとり車を走らせた。この23日にあるイベントに絡んで韋駄天像を拝顔してこようというものだが、そんな理由よりただ気晴らしがしたかっただけかもしれない。嘗て二度ばかり訪れてはいるのだが、布袋さんの背後に居るとてもハンサムな韋駄天像にはうかつにも気がつかなかったか、記憶にないので、三度目の正直でご対面となった。

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Photo/萬福寺の天王殿、布袋さんの背後にある韋駄天立像

とっぷりと暮れた帰路、運転しながら私は、それまで散り々々になっていた思いが、なんだか少しずつ凝り固まってくるような、そんな感じがしていた。どうやらいくらかは気分転換にはなったようだった。
夜中になってから、依頼者としてはずいぶん我が儘で世話のやけるだろう私に、この2年根気よく付合ってくれているK弁護士宛に手紙を書き出した。

K弁護士 様
昨日はどうもお疲れさまでした。
明けて今日はRYOUKOの3回目の命日です。
いわば二年間の総決算、解決への通過儀礼としての山場が、命日の前日という因縁めいた符号ではありましたが、そのT.Kとの対面、対決を終えてみて、あらかじめ半ば予測されたこととはいえ、なんだか徒労感と虚しさばかりがつのるといった、そんなところです。

7月の公判期日の折にいただいた書類、証拠説明書の一覧を見ていてふと気がついたことがあり、この件につきご意見も聞かねばと思っていたのですが、先日の打合せのときも、また昨日も切り出す機会を得ぬまま打ち過ぎてしまいましたので、以下遅まきながら書面にしております。

いまさらのことではありますが、疑義を挟まねばならない問題は、Mの刑事裁判で検察側から出された4つの実況見分調書-甲8号証の3,4,5,8-と鑑定書-甲8号証7における作成日の不思議です。
甲8号証3は、事故のその夜、直後の現場検証から作成された実況見分調書でしょう。甲8号証4は、二日後の9月11日、MKタクシー北営業所で甲乙両者の車の破損状態を詳細に調べておりますが、それに基づいて作成されたものと思われます。よってこれら二点にはなんの問題はありません。
次に甲8号証5、この内容はドライブレコーダーの映像に関する調査とあり、作成日がH21.2.18となっています。これはもうお笑い種としかいいようがありませんが、初めに担当したN検事に呼び出され、Ikuyoと私が初めて地検に行ったのがH21.1.30で、この席で医学生だったことを知らされるのですが、それは措いて、その席で私どもはT.Kの過失に対する疑義を問うておりますし、さらに、私どもがT.Kに対する刑事告訴の書面を検察に提出したのが2月10日付でしたから、これに対処すべくまるで付焼刃のように急遽西署に作成させたものということになりますか。
そして、ドライブレコーダーをやっと手に入れた私どもが、これを証拠として書面とともに検察に提出しに行ったのが4月9日でしたが、このときN検事は書面のみ受取り、記録画像はウィルスの問題もあり受け取れぬと拒否するわけです。この席で、ドライブレコーダーについてもこれこの通りちゃんと検証していると言いつつ、私どもに件の調書の静止画像などをご披露なさるわけです。まるでその実況見分調書が送検の初めから付されてきた証拠資料であったかの如くに。これでは姑息なスタンドプレイそのものではありませんか、まったくふざけた話です。

さて、問題なのは、甲8号証8です。この作成日がH21.9.17とあります。そして甲8号証7のドライブレコーダーによる鑑定書の作成日がなんとH22.3.26とずいぶん開いています。
鑑定書はドライブレコーダーの機械的不備から起こるタイムラグを修正したうえで詳細なタイムレコードを作成したもののはずです。甲8号証8の実況見分調書は、検察の意を受けてあらためて、その詳細なタイムレコードに基づき、事故車とは別の用意された車で実況見分し作成されたものですから、実際には甲8号証7の鑑定書の原形となっている鑑定書が存在し、それは当然、甲8号証8の作成日以前に作成されたものであるはずです。本来なら、その原形である鑑定書と甲8号証8の実況見分調書がセットになって証拠として提出されるのが自然な形でしょう。ところが原形の鑑定書にどんな不具合があったものか、わざわざ作り直させているわけです。しかも、作成日の3月26日といえば、森田の起訴とT.Kの略式起訴の決定通知がともに3月19日付で、その後裁判所へ提出するべき証拠資料の精査段階でなんらか補正する必要があり作成されたものらしいということになります。
しかし、さきの甲8号証5の付焼刃的作成も、この鑑定書の補正作成も、大切な事実関係を意図的に歪めるようなそんな問題ではないでしょう。取るに足らないことなのだろうと推測します。

私が問題にしたいのは、甲8号証7の実況見分調書が昨年9月17日付で作成されたものであり、その作成が甲8号証3及4と同様に西署でなされ、その担当者もすべて同じT何某であったということです。これはお確かめください。どうやらT何某は科学捜査班の一員であり且つ西署に配属されている署員であったのではないかと推量されます。
N副検事から担当を引継いだO副検事が私どもに強く印象づけようとしたのは、ドライブレコーダーを精査したうえで、あらためて行った実況見分であり、その実施された時期も、ごく直近、早くとも昨年の12月あるいは今年に入った1月中のことかと推量されるような物言いだったのですが、なんのことはない昨年9月段階でとっくに出来ていたものだった。それも私どもは当然、当初よりこの事件の捜査を担当してきた者たちとはまったく別の手によってなされたものとばかり受けとめていたのですが、同一人の手になるものだったということです。
こんなことでは、当初からの実況見分調書に事実関係を補完し強固にするものとはなっても、そこから矛楯するような新事実など出てこようはずはありません。
「府警から再捜査の報告が上がってきたので、11月中あるいは遅くとも12月には、審判を下せるだろう」と、私がO副検事から電話で報告を受けたのは昨年の11月9日でした。ところが待てど暮らせど、年が明けてもなんの音沙汰もありません。結局のところ、次に連絡を受けたのは3月に入って10日でした。「審理報告のため15日に来られたし」と。
それより先、T.Kが呼出しに応じて出頭したのが受験を了えた2月16日、この日彼は略式起訴を受容れ最終調書に署名押印したのでしょう。
そしてMの出頭が3月9日、公判請求する旨を伝えられ、同意書に署名しています。
11月の初めに再捜査書類の上がってきたものが、なぜ年度末の3月に至るまで、4ヶ月も徒らに処分決定を待たねばならなかったのか、私としてはやはり奇異に感じざるを得ません。
Kさんには、「それは邪推に過ぎましょう」と一笑に付されるかもしれませんが、どうしても私は、ここでT.Kの医師免許受験日程と、このタイムラグを重ねてみたくなります。
試験実施日が、2月13、14、15日の三日間、
合格発表が、3月29日、
試験の応募期間は、厚労省発表の23年度実施分が、22年11月15日から12月3日迄となっており、ほぼ同時期、昨年の11月中旬から12月初旬の間だったでしょう。
11月には上がっていた再捜査資料を、3月の年度内ぎりぎりまで引っ張って、処分決定をし、それぞれ略式起訴と起訴の手続きを完了させる、はたしてここには作為の一片もなかったのか。
T.Kには格別の情実がはたらいている、それをはたらかせる力がT.Kサイドにはある、ということに思い到らざるをえないのです、結局は。
重ねてなんども言いますが、私は在日にはなんの偏見も持っていません。もちろん日本の問題、歴史の負の遺産としての在日問題には、私なりに相応の関心はあります。この年になって偶々集英社新書の小熊英二・姜尚中編「在日一世の記憶」を読んでおったくらいですから。これはちょっとした大部の著です。52人もの在日一世たちひとりひとりの貴重な語りですから、ずしりとずいぶん重いものでした。

最後に、昨日も言いましたように、やはり私としては、これ以上法廷での証言などを求める気は毛頭ありませんが、まったく個人的に、しかし事の本質において問題解決のために、MとT.Kと私と三者で、ドライブレコーダーを見ることが出来るか、と。
最終的に事実関係はどうでもよいことなのです、RYOUKOにだって落ち度はあるのです、私はMに確かめています、あの交差点で右折することを彼女が求めたのだということ、彼女がシートベルトをしていなかったことを。
Kさんは、私刑のようだと言われましたが、私はそうは思いません。彼が昨日どれほどの覚悟をもってあの場に現れたかはよく判りませんが、これまでのように逃げ回らないで、一身をもって事にあたれ、ということです。それだけの気概を示せる場面は、では他にどんな場面が想定できるのでしょうか。
Ikuyoは、息子のDaisukeとともに迎えるから、T.K独りでお参りにお出でなさい、と言いましたが、これはこれでよく判ります。赦しの論理です。あえていえばカタルシス=浄化の論理です。
墓前にあるいは仏前に、互いに涙して洗い清めましょう、これからもずっと怨みを抱きながら生きることほど悲しくも過酷なことはないのですから。
   2010.9.14  林田鉄 拝

―山頭火の一句― 行乞記再び -102
4月12日、雨、滞在休養、ゆつたりと一日一夜をあじはつた

久しぶりに朝酒を味ふ、これも緑平老の供養である、ありがたしともありがたし。
同宿は5人、みんな気軽な人々である、四方山話、私も一杯機嫌でおしやべりをした。
しとしとと降る、まつたく春雨だ、その音に聴き入りながらちびりちびりと飲む、水烏賊1尾5銭、生卵2個5銭、酒2合15銭の散在だ、うれしかつた。

終日句稿整理、私にはまだ自選の自信がない、しかし句集だけは出さなければならない、句集が出せなければ、草庵を結ぶことが出来ないのである。

今夜の同宿は5人、その中に嫌な男がゐるので、私は彼等のグループから離れてゐた、彼は妙に高慢ちきで、人の揚げ足を取らう取らうとしてゐる、みんなが表面敬意を見せて内心では軽蔑してゐるのに気がつかないで、駄法螺を吹いて威張つてゐる、よく見る型の一種だが、私の最も好かない型である、彼にひきかへて、鍋釜蓋さんは愉快な男だ、いふ事する事が愛嬌たつぷりである、お遍路婆さんも面白い、元気で朗らかだ、遊芸夫婦-夫は尺八、妻は尼-にも好意が持てた、ここで思ひついたのだが、出来合の旅人夫婦は、たいがい、女房の方がずつと年上だ、そして妻権がなかなか強い、彼は彼女の若い燕、いや鴉でもあらう。

夜は読書、鉄眼禅師法語はありがたい。

※表題句は4/10の句、句作なし

佐用姫の伝承をもつ風光明媚なこの地は、山頭火にとってひととき安寧を与えてくれるものであったのだろうか。

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Photo/領巾振山-鏡山-から見渡す虹ノ松原

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Photo/領巾振山の頂きにある鏡山神社

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Photo/鏡山の道しるべとなる石碑


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2010年9月9日木曜日

松風に鉄鉢をさゝげてゐる

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―日々余話― よしなしごと

九州西北部をかすめるように日本海に到つた台風9号は北陸路に上陸して関東をぬけるというまことに変則なコースを描いて熱帯低気圧に変わつた、と。おかげで昨日今日と、酷暑も和らいでしのぎやすい。河川の氾濫や浸水など、被災報道のかたわら、漁港や農家などには恵みの雨ともなるといった報道もあり、自然の猛威のプラスマイナスは一概には測りがたい。石川県では30℃以上の真夏日の連続記録を更新していた小松が、最高気温25.9℃で前日までの54日間でストップ。金沢も26.1℃にとどまったそうだ。

2.3日前だったか、連合い殿が、神尾真由子の「Paganini-24 Capricci」を自分のポータブルオーディオにダビングしてくれ、という。長引く酷暑のなかで心身ともにボロボロ状態でなお仕事に出かけているが、これを聴いては気分一新、ヤル気を引つ張り出すのだ、と曰う。
私も、いま、その24 Capricciを聴きながらこれを書いているのだが、そりゃ変幻自在おもしろくも見事な演奏だが文字通り奇想の曲とも呼ばれる些か狂気じみた世界である。これを聴いてリフレッシュとは、どう考えてもやはり彼女、めずらしい神経の持ち主、変わった御仁というしかないようである。

―山頭火の一句― 行乞記再び -101
4月11日、晴后曇、行程6里、深江、久保屋

歩いてゐる、領巾振山、虹ノ松原、松浦潟の風光は私にも写せさうである、それだけ松原逍遙、よかつた、道は八方さわりなし。
今夜はずゐぶん飲んだ-緑平兄の供養で-、しかし寝られないので、いろいろの事を考へる-其中庵のこと、三八九の事。
酒は嗜好品である、それが必需品となつては助からない、酒が生活内容の主となつては呪はれてあれ。
木の芽はほんたうに美しい、花よりも美しい、此宿の周囲は桑畑、美しい芽が出てゐる、無花果の芽も美しい。

※表題句の外、7句を記す

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Photo/領巾振山-鏡山から-虹ノ松原を望む

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Photo/唐津城の天守から眺望した虹ノ松原


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2010年9月5日日曜日

石がころんでくる道は遠い

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―日々余話― 1960~、十五の春から半世紀

三日前-2日-にようやく発送を了えた高校同期会の総会案内。
入学が1960年だったから、今年でちようど50年が経ったことになるので、案内の表題をかようにした。

「1960〜 十五の春から半世紀。」
ICHIOKA 青春のはじまり、あの頃ぼくらは21世紀に生きることなど想像の埒外だった。

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このたびは、特別ゲストとして現役の高校生たち「吹奏楽部」に出演してもらう予定なのだが、そんな企画や入学から50年ということもあって、幹事諸氏には遠い昔となった高校生活を振り返って、市岡時代の今も鮮やかに記憶に残ることなどを、短いコメントとして書いて貰って、案内紙面に網羅することにした。結果18のコメントが並ぶことになった。
そのいくつかを紹介しよう。

「60年安保でゆれた高一生活! 高三の文化祭でのあのフォークダンス!! 未だに青春が生きてます!!!」
「入学当初は野田阪神前から路面電車通学でした。いつから環状線に乗るようになったか思い出せません」
「ホームルーム、文化祭、フォークダンスetc.…、そして50年経っても青春を語れる友を得た」
「先生と生徒の間が友達のように近くて驚きでした。私の通った中学は厳格すぎたのか? ありえないことでした」
「初めての革靴と市電通学、ESS、先生方のお顔‥。文化祭で生物部の血液型判定O型が、成人後AB型と判明!?」
「2時間連続のロングホームルームで靱公園等へ出かけたり、与えられたテーマで討論会をしたこと」
「一年生の遠足の岩涌山ハイキング、喉は渇くワ、きついワ、翌日からは筋肉痛になるワ、の苦行でした」
「演劇部の部室、照明用ライトで弁当を暖め早飯。昼休みはフルタイムで遊ぶ。試験中の卓球三昧でずいぶん上手くなった」
「チャイムと同時に教室に入る手島先生に、一歩負けて何度も遅刻になり悔しかった事!」
「昭和36年9月16日の第二室戸台風、自宅床上浸水、泥水の中登校、教室も浸水、壁の白片が散らかっていた」
「アルバムの中で着用している夏の制服、家庭科の授業で悪戦苦闘しながら頑張って仕上げた作品です」etc.

そして私のは、「入学まもない6.19、200人ほどの生徒らが気勢を上げながら校庭を周回して御堂筋デモへ。心ざわめきつつ3階の講堂の窓からただ眺めやっていたぼく‥」と。
特活や全校集会で安保議論が熱を帯びていった当時、演劇部だった私には新人公演の稽古が重なっていたから、御堂筋デモへ参加すべく気勢を上げている200人ばかりの集団を、講堂の窓から眺めやるしかなかった訳だが、その中に同じクラスの何人かの顔馴染みを見出しては、あちらとこちら、その距離がなんだか居心地の悪さやら落ち着かなさをもたらしたのだろう、忘れ得ぬ光景としていまも鮮やかに残っているのだ。

―山頭火の一句― 行乞記再び -100
4月10日、曇后晴、行程8里、唐津市、梅屋

8時から6時まで歩きつづけた、黒川と波多津とで行乞、海岸路山間路、高低曲折の8里を歩いて来たのだから、山頭火いまだ老いず矣-但し途中キツケ水注入-。-略-
さすがに田舎は気持がよい、手掴みで米を出すやうな人もなく、逢ふ人はみな会釈する、こちらが恥づかしくなるほどだ。
御大典記念の時計台がこしらへてある、いい思ひつきだけれど、あんなところにこしらへたのが、さて、どりくらゐ役立つだらうかとも考へられる。
今日、はじめて蟇を聞き蛇を見た。
やつぱり南国の風景は美しすぎる、築山のやうな山、泉水のやうな滝、‥まるで箱庭である。
山ざくらはもう葉ざくらとなつてゐた。
山村のお百姓さんはほんたうによく働いてゐる、もつたいないと思つた、すまないと思つた。
同宿4人、二人は夫婦、仲のよいことである。
今夜の酒はうまかつた、酒そのものはあまりよくないのに。

さつそく留置郵便をうけとる、どれもありがたかつたが、ことに緑平老のそれはありがたかつた。
私は何も持つてゐない、ただ友を持つてゐる、よい友を持つてゐることは、私のよろこびであり、ほこりでもある。
緑平老のたよりによれば、朱鱗洞居士は無縁仏になつてしまつてゐるといふ、南無朱鱗洞居士、それでもよいではないか、君の位牌は墓石は心は、自由俳句のなかに、自由俳人の胸のうちにある。-略-
人間に対して行乞せずに、自然に向かつて行乞したい、いひかへれば、木の実草の実を食べてゐたい。

※表題句の外、7句を記す

伊万里の中心街から唐津街道-国道204号線-を歩くと唐津市までほぼ32km余、8里である。伊万里市の黒川町、波多津町あたりまでは海岸線が続き、以後は長い山間路となる。

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Photo/黒川町には、嘗て大阪市内の木津川筋にあった名村造船が昭和49年から移転している

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Photo/波多津の近く、高尾山公園から望む伊万里湾風景


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Photo/波多津から福島へと橋を渡れば、名高い土谷の棚田がある
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2010年9月4日土曜日

夫婦仲よく鉄うつやとんかん

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―日々余話― Soulful Days-40- 三回忌に迎える山場

午後1時前、地下鉄淀屋橋の駅から地上にあがるとうだるような暑さ。堂島の川風も湿気をいっぱいに含んでなんの慰めにもならない。裁判所近くの弁護士事務所までの5.6分の距離も、右に左にと、わずかなビルの日陰を求めながら歩く。

明日はRYOUKOの三回忌の法要を内々に執り行うことになっているが、その前日に弁護士と会うことになったのは、この13日に控えた公判期日の打合せのためだ。7月30日の前回公判で裁判官からの提案で、いわば和解勧告へ向けた布石としてだろうが、被告と原告双方が直に向き合い話し合う機会を得たいと、次の公判期日が設定されたのである。事故から丸2年、事故究明に端を発した刑事・民事双方の訴訟も、刑事は5月に決着をみ、民事もまた解決へと急転していくその山場を向かえようとしているわけだが、その日があろうことか、命日の前日というのはなんという符号か。それが決められた際に私は同席していたのだが、思わずRYOUKOの面影が脳裏を走り、小さく呻ってしまったものだった。

さかのぼって、5月21日付、われわれは被告Tに対し「請求の拡張申立」を行っていた。
被告側がわれわれの損害賠償請求に対し冒頭より無過失を主張したり、医師免許国家試験受験の欠格事由にあたる罰金刑となるのは必定であったにもかかわらず、どさくさに紛れるかのように2月に本年度試験を受験したりといった行為が、まったく事故責任を省みないものであり、また一片の反省の色なく、被害者心情を著しく傷つけるものとしての申立てであり、損害賠償請求に加えての慰謝料請求といったものである。
この申し立ての際に付した「T.K宛慰謝料請求のために」と題した陳述書は、その殆どの部分が先の「述べられなかった意見陳述草稿」に重なる。

この申立てに対し、6月25日付、被告代理人から答弁書が出されてきたのだが、その内容がまたこちらの心情をいたく逆撫でするものだった。よって私は反論の反論のため、またまた長い文書を書く仕儀となってしまった。先の文書が、自身のための、いわば総括的なものであっただけに、どうにも腰が重かったのだが、そうもいっておられず、無理強いにのようになんとかモノしたのが以下の文書で、7月30日付、裁判所に提出したものである。

 陳 述 書
平成21年(ワ)第****号 交通事故による損害賠償請求事件
大阪地方裁判所 第15民事部**係 殿

平成22年6月25日付、
被告代理人が提出した「請求の拡張申立に対する答弁」における、
主に「第3-被告Tの主張」に関して

1について-
事故当夜における対面は、事故当事者である両者-MとT-からともに当事者である旨の挨拶を受けたものであり、この一言二言の自己紹介的な挨拶を謝罪と数えあげるのは、事故直後の救急車で運ばれる時より被害者RYOUKOが意識不明の重篤にあったことを認識していなかったわけでもなかろうに、事態の深刻さをあまりにも軽んじた言い分である。
また、この折、Tに付き添ってきた婦人が母親であることは、名告りも受けていないし、まったく接触もしていないのだから、私としては母親と知る由もない。
よって、この両者から謝罪の言葉を頂戴したという主張は、まったくもって人を喰った話というしかない。

以下、2から5について-
まず反証資料として、
1.平成20年9月23日付、私からT.K宛送付した書面の写し、
2.同9月30日付発信の、T親子から送付された返書の写し
3.同10月2日付、私からT.K及び父Aに送付した書面の写し
4.同10月10日付発信の、T親子から送付された返書の写し
の4つの書面を付したい。
とくに、10月2日付の私からの書面にあるように、被害者RYOUKOが生死の境にあって集中治療室にある以上、なによりもその家族と接触を図り、それが被告らにとってどんなに耐え難いことであろうとも、直々に謝意を伝え、相手の心の傷みや苦しみを正面から受け止めようとするのが喫緊のことであり、人倫としての務めであること。
その喫緊の人倫の務めを怠りながら、被害者家族にまったく見えないところで、回復祈願をし、さらには冥福を祈り供養をしたとて、それは何のための誰がための祈願であり供養だろうか、なによりも自分たち自身のため、自分たち自身の心の呵責を癒すためのものでしかなく、いわば自慰行為にも等しいものだということであり、被告及びその両親は、私からの書面に発したこれら4つの書面のやりとりまでは、RYOUKOの死という犠牲を招いてしまった事故の、この悲劇的な事態にまったく正面から向き合おうとせず、逃避行を決め込んでしまっていたのである。自分たちは自分たちなりに回復祈願を、あるいは供養をというのは、被害者及び被害者家族の沈痛な嘆きや心情を無視した、あまりに偽善、あまりに身勝手な善人面の仮面というしかない。

6について-
まず注意を喚起しておきたいことは、10月9日の午前、被告Tとその両親は、前触れもなく原告林田育代宅を訪ね、不在であったためメモを残しているというのは確かであるが、被告らのこの行為が、私の再度の書面に対し返信-10月10日付発信-する前日のことだということに留意してもらいたい。
被告側からの返信はすべて被告Tの父Aが書いたものであることは一目瞭然であるが、父Aは、私からの二度目の書面を読んで返答に窮したと容易に察せられる。そこでいわば局面打開の実力行使に出た、私とは別居してきた被害者RYOUKOの位牌のある場所即ち原告育代宅を突然訪ね、直々にお参りをという行為にでたのである。ところが折悪しく不在であったため名刺のメモを残したということだ。
そして、その日のうちに、私宛の返信を書き、翌日投函しているわけだが、その朝の原告育代宅訪問については、近日中に参りたいと思いますと記すのみで、不在だったものの既に訪問してみたことはなぜだか伏せている。
同じ9日の午後、原告育代から私に電話があった。「私が留守中でよかった、もし居たとしたら、今の自分にはとても冷静に応接など出来るはずもない、自分自身なにを口走るか、考えるさえ怖い。だから来ないようにして欲しい。」とそんな内容だった。
そこで私は夕刻になってから、被告Tの携帯に連絡をした。電話といえばこの携帯しか知らなかったからだ。単刀直入、「父親に電話をするように」と。
折り返し、父Aからの電話に、「勝手に実家-原告育代宅-を訪ねるようなことは、今後けっしてしてくれるな。本人は、突然またいつ来られるかと思えば、それだけで胸苦しくさえなると訴えている。何をするにも私を通してもらいたい。いずれ受け容れられるようなときがきたら、私から連絡もしよう。」といった旨を伝えたにすぎない。

7.8について-
このたびの請求の拡張申立における書面において、私自身記したように、交通事故とは偶然に満ちたものであり、運転者双方の些細なミスによって生じるものであり、誰も故意に起こすものではない。ならばその僅かな不注意で、人一人を死に至らしめるというとんでもない事態を招いたとすれば、その原因となった事故当事者たるもの、犠牲者及びその家族とはまた別次の責めや傷みを負わざるをえないと容易に察せられる。だから相手を恨んだり責めたりはすまい、しないと自分を律してきたつもりである。
そのことは現在に至るも同じで、今も被告Tを恨んだりはしていない。なんで事故なんか起こしたんだなどと責めるつもりもない。そういった責める思いと、誰にも起こりうることであってみれば、責めるのは可哀相だ不憫だと、ジレンマに陥らざるをえないのはむしろ被告Tの両親のほうだろう。
そんなことは分かりすぎるからこそ、私は、被告T自身の謝罪に対してというよりは、父Aの子を思う真摯な謝罪に対して、一定の受容をしてきたのである。
現に被告T代理人によって提出された答弁書全容からも容易に覗えることは、被告T自身による一連の謝罪行為というよりは、どこまでも父Aが主体となった謝罪であり、私とのさまざまの応接である。
もう30歳にもなろうかという立派な成年男子でありながら、被告Tが自ら主体的に、私に向かって、はっきりと物を言い、また何かを為したということはなく、親に伴われて、借りてきた猫のごとく、そこにただ居合わせてきただけである。
それでも私は、母親である原告育代や、被害者のたった一人の弟の、被告Tへの心情的な受け容れがたさを知りつつ、私自身が彼らになりかわり、批判は批判としつつ無念は無念としつつも、受け容れていかざるをえないと考え、応接してきたのである。
それが11月8日の父Aと被告T両者との一時間余の対面であり、12月25日における私のみの立会いでの故人へのお参りの許容であった。

9.10について-
たしかに、このまま推移すれば、時日はかかったにせよ原告育代や弟の、被告Tに対する心情もやがては和らいでいった筈である。
ところが、180°の急転を見せるのは、年が明けて1月30日、私と原告育代が検察庁の呼び出しに応じて、初めて担当検事の西本副検事に会い、事故原因に関する概況や、M並びにT被告への刑事処分に関する検察判断等を聞かされてからである。
とりわけ、被告Tが、元医学生であったこと、さらには事故の反省から医師免許国家試験をめざそうとしている有意の青年であるから不起訴処分に、という温情的判断が示されたことは、私にとってまさに驚天動地の出来事だったのだ。
元医学生、それも大阪市立大学の医学部卒業である。さすれば世間知はともかく、知識もあれば知恵も人並み以上にある。その被告Tの、事故当初の被害者及び被害者家族への無関心ぶりは一体なんだというのか。そして私からの怒りの書面を受けてからも、被害者家族に対して、いっさい自らは行動を起こさず、直かに物を言おうとせず、親の傍らに隠れるようにしてその場をやり過ごしてきた彼という人間は、一体どういう恥知らずなのか。
これは被告Tの高等戦術なのだ、彼は親の前でもどこまでもよい子を装い、もちろん私の前でもそうして演技している、そんな仮面を被った狡知に長けた人間、それが被告Tの本性なのだと、私が受け取ったのは事の成り行きからして必然だったのである。
それからの私は、自ら事故状況を詳しく知らねばならぬと、俄然行動的になった。
まず、私の方から事故当事者Mに連絡を取り、事故状況について説明を求めた。被告Tの「もらい事故」なる怪しからぬ噴飯物の発言は、この席でMから聞かされた話である。これが翌日の1月31日。
Mの雇用者、MKタクシーには、ドライブレコーダーのコピーを是非見たいと要請した。その傍ら、2月10日には、被告Tを刑事告訴した。
待望のドライブレコーダーをようやく手にしたのは3月13日、なんどもなんども繰り返し見た。記録画像は、1/2と1/5のスローモーションでも見られるようになっている。
M車が右折行為にさしかかろうとする、事故より6秒ほど前から対向車線を軽四のトラックが、2.5秒ほどかけてゆっくりと広い交差点を通り過ぎているが、この車の前照灯は鮮明に映っている。また、事故直後の対向車線上には、赤信号に変わって信号待ちで停止している乗用車の前照灯も、路面を照らしているのがよくわかる。
軽四トラックが通り過ぎてから、M車が右折から直進へと移行しつつあるが、この前照灯による路面変化もスローモーション画像なら見て取れる。
ところが、70km/h以上で直進してきたという被告T車の前照灯による路面変化は、直交してくる横合いからの光だからはっきりと映るはずなのに、スローモーションでさえもまったく見られないのである。
そしてまた、ドライブレコーダーに基づく調査とされる甲8号証の8「実況見分調書」における、事故発生3秒前の被告T車の想定位置写真や同じく2秒前の位置写真、この場合の仮想T車は前照灯を灯したものであるが、これを見れば、少なくとも2秒前において、MがT車を視認しないはずはないとするのが至当であるのに、MがT車にまったく気づきえなかったのは、T車の無灯火運転を証拠づけるものである。
ドライブレコーダーをごくニュートラルな眼で、素直に見る限り、これが事実である。被告T車は無灯火であったとしかいいようがない、というのが記録画像の明らかに語るところだ。
ところが、大阪府警科捜研は、ドライブレコーダーの画像は高精度ではないからと、あえて検証対象から外した。そして、この記録の機械的構造から起きるタイムラグを微修正しながら、詳細なタイムレコーダーのみを作り上げ、事故原因の分析対象とした。それが6月28日付、被告T側から提出された準備書面2が根拠にもしている甲8号証7の鑑定書である。
これは、はっきりいってインチキだ。科捜研は府警西警察署が作成した事故の概況及び調書等にまったく矛盾しない報告書を作るべく腐心しただけの苦心の作だ。畢竟それは検察の意志でもあったろう。
またご丁寧なことに、M被告の刑事裁判では、公判の法廷において、このドライブレコーダーをスローモーションではなく実際の速度で液晶画面に映し出している。それも裁判官の要請で二度までも。しかし、ほんの10秒ほどの出来事を実際のスピードで法廷の画面に映し出し、これを遠目に眺めてみたところで、詳細のほどは知れようもない。いかにも法廷では画像のほうもちゃんと実況見分したよといわんばかりで、まるでセレモニーの具にされたようなものだ。
先に記したように、M車の右折行為は、軽四トラックが交差点内を進行しはじめるあたりから始まっており、いよいよ右折から直進へと移るまでに5秒ほどかかっているというまことにゆっくりとしたものである。その間、被告Tにとって、M車の姿は見えずとも前照灯の移ろいは、前方を注視していれば3秒も4秒も前から気づいて当然のものだ。このことからも、被告Tは無灯火であったばかりか、2秒あまりの脇見運転までもしていたとしか考えられないのである。
これら無灯火についても脇見についても、被告Tにとっては消し去りようのない事実であり記憶である。彼は、事故当初より、この事実を隠蔽し通さねばならなかった。もし自分の過失が大となれば、一人息子として両親から庇護され保証されてきた手厚いまでの恩恵、医者になるよりもまた留年してまでも趣味を活かしたウェイクボードのプロの道、申し訳程度にしたい時出来る時にしかしない家業の手伝い、高層マンションの広い上階に独り住む優雅な独身貴族の日々、これらがすべて反古になりかねないのだから。だからこそ、被告Tにとって、生死の境を彷徨う被害者のことも、その家族たちのことも、関心の埒外に置かねばならなかったし、自分の罪科を微罪にするべく事実に背を向け、西警察署の取り調べや聴取に専心、自らの保身のみを図ろうとしたのである。
となれば、これは未必の故意とさえいいうるような欺瞞行為であり、非道卑劣な行為といわざるをえないではないか。
刑事告訴にはじまり、こういった事実が明らかになるにおよんでは、初盆や一周忌に送られてきた供物を、どうして黙って受け取られよう。私が送り返すのも当然のことではないか。
あまつさえ許し難いのは、当該の民事訴訟において、ぬけぬけと無過失を主張したことである。その論拠を刑事事件の捜査未了であったことにおいているが、被告Tは、事故直後の府警西警察署の取り調べ段階からずっと一分の過失は認めており、いずれの段階においても過失ゼロを主張した形跡はどこにもない。それなのにこれをしも法廷戦術だなどというのなら、まったく低劣なことこのうえないと思うばかりだが、「原告等の気持を逆撫でする」行為とは、まさにこれ、そのものずばりではないか。
またさらに、被告Tは、本年の2月初旬、検察からの最終的呼び出しの要請を受けたものの、これを2月16日以降に延ばしてもらっている。医師免許国家試験が同月13日から3日間あり、これを受験するためだったのだが、この合格発表は3月29日である。しかるに、検察の刑事処分決定通知はそれより先の3月21日付、罰金30万円となった。
不起訴ならともかく、当該処分を受ければ、少なくとも数年間、受験資格はなくなる。実際の合否がどうであったか知る由もないが、発表前に処分が下った。仮にこの処分を厚労省管轄部署の知るところとなれば、合格していたとしても一定の留保期間がおかれる仕儀となるが、その結果については私のあずかり知るところではない。
この受験と合否発表の日程、そして検察の最終呼び出しから刑事処分の日程とが、綱渡りのように錯綜してあるのは、父Aの子可愛さ、将来を憂えての強い干渉と意志が関わった所為なのだろうけれど、あろうことか、父Aは、突然私に連絡をよこして、試験前日の2月12日に面会を求め、今年の医師試験を受験する旨を伝えたのである。
これはもう親の盲目的愚としかいいようもないが、先に処分ありきでは2.3年は受験も叶わず、処分の下る前に駆け込み受験といった料簡見え見えで、この受験が親としてよほど切望していたことにせよ、こういった事情を被害者家族の私に報告してくるにおよんでは、なにをか況んや。これまた被害者家族「逆撫で」の最たる一件である。

最後に繰り返し言う、被告Tは、傲岸不遜な利己主義の権化、狡知に長けた欺瞞の徒である。両親の恩寵の陰に隠れ、おのれの利害の外はまったく省みようとしない輩、幼い頃から親の前では、よい子できる子を演じつづけてきた虚飾に満ちた卑劣漢、人の心の欠落してしまったまるで未熟な大人なのだ。
一片たりともそうでないと主張するなら、私たち原告の前に自ら姿をあらわし、潔く法廷の場に立てばいい。その時が、人の人たる心を取り戻しうる、唯一大きな機会なのだから。
  平成22年7月30日  以下署名

―山頭火の一句― 行乞記再び -99
4月9日、申分ない晴、町内行乞、滞在、叶屋

今日はよく行乞した、こんなに辛抱強く家から家へと歩きまはつたことは近来めづらしい、お天気がよいと、身心もよいし、行乞相もよい、もつとも、あまりよすぎてもいけないが。-略-

花が咲いて留守が多い、牛が牛市へ曳かれてゆく、老人が若者に手をひかれて出歩く、子供は無論飛びまはつてゐる。
花、花、花だ、満目の花だ、歩々みな花だ、「見るところ花にあらざるはなし」「蝕目皆花」である。南国の春では、千紫万紅といふ漢語が、形容詞ではなくて実感だ。-略-

夕食後、春宵漫歩としやれる、伊万里も美しい町である、山も水も、しかし人はあまり美しくないやうである。
今夜の同宿は3人、一人は活動に、一人は浪花節にいつた、私は宿に残つて読書。
今夜もまた眠れないのでいろいろのラチもない事を考へる-酒好きは一切を酒に換算する、これが一合、いや、これで一杯やれる、等、等、等。
私はしよつちゆう胃腸を虐待する、だから、こんどのやうに胃腸が反逆するのはあたりまへだ。
聖人に夢なく凡人に夢は多すぎる、執着のないところに夢はない、夢は執着の同意語の一つだ、私はよく悪夢におそはれる、そして自分で自分の憎愛の念のはげしいのにおどろく。

※表題句に鍛冶屋の註、外に4句を記す

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Photo/伊萬里神社のトンテントン祭り

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Photo/秘窯の里大河内山のボシ灯ろうまつり


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2010年9月1日水曜日

腹底のしくしくいたむ大声で歩く

Santouka081130047

―日々余話― もう、うんざり‥

とうとう8月も晦日というに記録破りの猛暑は続く。真夏日も熱帯夜も、94年の過去記録を各地で更新しているという。この分だと9月半ばあたりまで続きそうな気配さえして、ほとほとうんざり‥。

酷暑に、不況と円高、二重苦三重苦のわが列島だというのに、参院選をしくじった管直人に政局の嵐は避けられず、民主党はとうとう代表選突入というお粗末に、これまたうんざり‥。

ところで「うんざり」の「うん」は「倦む」からきているのだろうが、どうして「うんざり」と成ったのか、語源がよくわからない。広辞苑などではそんなことは教えてくれない。

で、netで検索してみたら、「倦むずあり」が略されて「うんざり」と変化してきた、という説が多く散見される。
しかし、この説だと、なんだか「倦むず」と「あり」の合成語にもみえ、動詞句のようなことになってしまうから不味いのではないか。「うんざり」とはどう見ても副詞であって、「うんざり+する」となって動詞句となるからだ。

もう一つ、この説とは似て非なるものが見つかった。Wiktionary-ウィクショナリー日本語版-によれば、古語の「うさ(当時の発音はunsa, unza)」+副詞語尾「り」が語源であると。名詞の「倦さ」に副詞語尾の「り」が接合されて副詞「うさり」が「うんざり」へと表記変化してきたとの説に、どうやら軍配があがりそうだ。

―山頭火の一句― 行乞記再び -98
4月8日、雨後の春景色はことさらに美しい、今日は花祭である、7年前の味取生活をしぜんに思ひだしてなつがしかつたことである。

今日は辛かつた、行乞したくないよりも行乞できないのを、むりやり行乞したのである、しなければならなかつたのである、先日来毎日毎日の食込で、文字通りその日ぐらしとなつてしまつたから詮方ない。

やつと2里歩いて此町へ着いた-途中二度上厠-、そして3時間ばかり行乞した、おかげで飯と屋根代だけは出来た、一浴したが一杯はやらない、此宿は清潔第一で、それがために客が却つて泊らないらしい、昨夜の宿とは雲泥の差だ、叶屋。

旅に病んで、つくづく練れてゐない自分、磨かれてゐない自分、そしてしかも天真を失ひ純情を無くした自分、野性味もなく修養価値もない自分を見出ださざるを得なかつた。

-略-、街上所見の一―これはまた、うどんやが硝子戸をはめてカフェー日輪となつてゐる、立看板に美々しく「スマートな女給、モダーンな設備、サーピス-セーピスぢやない-百パーセント」さぞさぞ非スマートな姐さんが非モダーなチヤブ台の間をよたよたすることだらう-カフエー全盛時代には山奥や浦辺にもカフエーと名だけつけたものがうようよしてゐた、駄菓子がカフエーベニスだつたりして、もつともそこは入川に臨んでゐたから、万更縁がないでもなかつたが-。

もう蕨を触れ歩く声が聞える、季節のうつりかはりの早いのには今更のやうに驚かされる。
同宿5人、私はひとりを守つて勉強した。

※表題句の外、2句を記す

楠久の町から2里ばかり歩いたというから、現伊万里市の中心部あたりだろう。

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Photo/楠久から伊万里市中心部へと向かう道中、東山代の明星桜

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Photo/伊万里市郊外の秘窯の里大川内山は、嘗ての鍋島藩御用窯だった

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Photo/大川内山の町並みにそびえ立つ巨大な焼きもの


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