2011年6月30日木曜日

かつと日が照り逢ひたうなつた

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―四方のたより Kへの通信

昨日は、お疲れさま、でした。
君にとっては、不本意なことも、いろいろとあったでしょうが、
兄と妹と弟、三人が揃った場に2時間余り立ち会って、家族としての、兄弟としてのさまざま来し方が、よくわかったような気がしました。
父親の早世も背景にあったでしょうが、君の妹や弟はなんとしても、母-君を基軸にして、生きてこなければならなかった-。そりゃそうだろうなあ、と痛いほど感じられました。
身内のあいだに、他者を介在させてみることは、問題解決にはとても大切なことですよ。
昔の家族制度なら、大概近くに叔父や叔母が居た。そういった存在が、他者の役割を果たして、縺れた結ぼれをほどいたり、なにくれとサポートできた。
今朝の新聞に、「独り暮し、3割超す」の見出しが躍っていました。
昨年の国勢調査に基づくものですが、
「一人暮し」31.2%、「夫婦と子ども」28.7%、「夫婦のみ」19.6%、「単親と子ども」8.8%、「その他」11.7%、とあります。
人間の社会というものが家族を単位として形成されるもの、という基本的原理がこうまで痩せ細ってきては、その社会に健全さを求められよう筈もなく、さまざまな病理現象があとを絶たないのも当然のことだろうし、世も末だと嘆かれるのもあたりまえだと思うよね。
でも、よく考えてみたら、人間の歴史なんて、有史以来、どの時点をとっても、つねに末法だったんじゃないか、ほんとうのところは。
話が横に逸れた。
とにかく君としては、これまでの生を、母-君を基軸に生きてきたと思われる、あの妹や弟の存在を、率直に心の頼みとすることが、ベターなんじゃないかと思います。彼らは、かなりの程度の甘えを許容してくれるよ、きっと。
もちろん、君の残りの生に寄り添ってくれ、その最後を看取ってくれようとしている存在を、排除しろなんてことを言うつもりは毛頭ないよ。
ボクとしては、もうすぐ日本にやってくるというその若い子をこの眼で見、彼女の想いをきちんと受け止めたうえで、君たちの関わりが、そんな嫌悪するべきものじゃないということを、僭越ながら君の妹や弟に助言できるようになれば、と願っているよ。

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Photo/「石川九楊展」の小皿に描かれた千字文

昨日は、宝塚のK宅を訪ねる前に、伊丹の工芸センターで開催中の「石川九楊展」に立ち寄った。
彼の書論や書史論は頗る面白く読んでいるが、前衛書の鑑賞には、やはり期待薄で臨んで正解だった。
「源氏物語五十五帖」や小皿に描かれた「千字文」を一時間近くかけて拝見したが、心撲たれる感からは遠かった。
これがまさに営為として、そこに開陳される、即ちパフォーマンスとして行われたとすれば、それは一見の価値ありかもしれないが、作品となった書の表層から、その途方もないような営為の過程を追体験出来よう筈もない。そんなことはほんの入口のところですぐ頓挫してしまうのが常だろう。

会場を出てその界隈を歩いていると、酒蔵の旧岡田家住宅があったので見学。
天井の高いガランとした広い空間、黒っぽい漆喰の酒蔵が、そのままイベント空間として利用されているらしい。
思わず食指が動いた。

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Photo/酒蔵の旧岡田家住居外観

―今月の購入本―
G.ベイトソン「精神の生態学」新思索社

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H.R.マトゥラーナ/他「オートポイエーシス-生命システムとはなにか」国文社
U.エーコ「薔薇の名前 -下-」東京創元社
D.H.ロレンス/福田恒存訳「黙示録論」ちくま学芸文庫
「現代思想 2011/02 特集-うつ病新論」青土社
夏樹静子「裁判百年史ものがたり」文藝春秋
山之口獏「山之口獏詩文集」講談社文芸文庫
々 「山之口獏-沖縄随筆集」平凡社ライブラリー
南伸坊「顔」ちくま学芸文庫
「文藝春秋 2011年07月号」文藝春秋

―図書館からの借本―
U.エーコ「醜の歴史」東洋書林
G.ベイトソン/他「天使のおそれ-聖なるもののエピステモロジー」青土社


―山頭火の一句―
行乞記再び-昭和7年-172

6月30日、同前。曇、今日も門外不出、すこしは気軽い。
あさましい夢を見た-それはほんたうにあさましいものだつた、西洋婦人といつしよに宝石探検に出かけて、途中、彼女を犯したのだ!-。
私は、善良な悪人に過ぎない。‥‥
 自戒三条
 一、 自分に媚びるな
 一、 足らざるに足りてあれ
 一、 現実を活かせ
いつもうまい酒をのむべし、うまい酒は多くとも三合を超ゆるものにあらず、自他共に喜ぶなり。

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Photo/KAORUKOと三恵寺の石仏と-‘11.04.30


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2011年6月29日水曜日

のぼりつくして石ほとけ

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-表象の森- 東寺見物と青木繁展

やっと青木繁展を見てきた。
7月10日の最終日も近づいているし、休日などに行こうものならとんでもない混雑のなかの苦行となろうから、絶対平日に行くべしと思っていた。

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京都南のインターから国道1号線を北へ走ると東寺にぶつかる。その門前を通りながら、そうだ学生時代から京都には関わりある身でありながら、この歳まで拝観もせず素通りばかり、時間に余裕もありそうだからこの際ちょいと立ち寄っていこう、独りだとこんな気まぐれもおきる。
四度焼失の災厄に遭ったという五重塔は、寛永21-1644-年、将軍家光の寄進によって再建なったという。

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金堂の薬師三尊、薬師如来の台座下部、その四面に配された小ぶりの十二神像たちに思わず見入ってしまった。

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見応えのあったのは講堂の立体曼荼羅、広い堂内に所狭しと並ぶ21躯の仏像たち、その内の15躯が平安前期の創建時のものでみな国宝指定、梅原猛によれば、この配置が空海の独創であろうというからおもしろい、必見の価値あり。
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岡崎公園へと足を運ぶのは久しぶりだ。
京都国立近代美術館-没後100年の青木繁展。

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青木繁については、作品「海の幸」-1904年-との出会いにはじまって、4年前になんどか書いたので、ここでは繰り返さない。
ただ、遺された作品の、そのナマの姿に直に向き合えれば、それでよかった。

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「黄泉比良坂」1903年

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「輪転」1903年

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「大穴牟知命」1905年
夭折の天才画家と、今でこそ謳われ評価も定まっているが、当時の画壇は一旦はこの早熟の才能に着目しつつも、時代の器はこれを受容もできず、結果として黙殺してしまったのだ。彼は不遇なまま、放浪の果てに病に倒れ、28歳の若さで死んでしまった。
わずか10年にも満たぬ画業のうちに、彼ならではの凝縮された作品世界がある。
その世界にひたすら耽溺できれば、ありがたいことこのうえない。

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「自画像」1904年

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「自画像」1903年
自画像が三点あった。
21歳の時の、未完ともみえる荒々しいタッチの自画像には強烈な牽引力がある。

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「幸彦像」1907年
我が子に幸彦の名を与えた彼は、父親の危篤の報で久留米に帰郷、幼な児は2歳にしてそのまま生き別れとなった。
その幼な児がどのように育ったのか、気になって調べてみた。
作曲家にして尺八奏者の福田蘭堂、昭和28-‘53-年のNHKラジオ放送「新書国物語・笛吹童子」、懐かしやあのオープニングテーマを手がけた御仁だった、とはオドロキ。
その蘭堂の息子が、クレージーキャッツの石橋エータローだと、ずいぶん意想外なところへ結びついたものだ。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-171

6月29日、同前。晴、寝床からおきあがれない、悪夢を見つづける外ない自分だつた。
寝てゐて、つくづく思ふ、百姓といふものはよく働くなあ、働くことそのことが一切であるやうに働いてゐる。
私は悔恨の念にたへなかつた。

※句の記載なし、表題句は6月26日所収。

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Photo/川棚温泉、クスの森の大楠


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2011年6月26日日曜日

大きな声で死ぬるほかない

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―表象の森― 懐かしの阪妻映画

今週月~金の5日間、毎朝10時前から昼頃までのひととき、WowWowの特番で、60年近くもタイムスリップ、阪妻主演の映画を堪能させてもらった。
‘52年封切の「丹下左膳」を皮切りに、「大江戸五人男」-‘51-、「あばれ獅子」-‘53-、「稲妻草紙」-‘51-、「おぼろ駕籠」-‘51-の5本。

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Photo/阪妻主演の「あばれ獅子」

いまだテレビも登場していなかった子どもの頃、私が育った九条の町の繁華街には、5.6館の映画館が建ち並んでいた。昭和30年代の映画全盛の五社協定時代なら、そのすべての封切館があったし、加えて洋画の封切館も1館あったくらいだから、とにかく休日となれば映画館に通うといった子ども時代だった。
阪妻映画は、’53年の「あばれ獅子」が遺作だから、昭和28年、私が9歳の年である。こんな頃に独りで劇場に行った訳もないから、たいがい父母に連れられて通ったことになるが、後の勝海舟となった勝麟太郎と小吉の親子を描いたこの映画は記憶の片隅にいまも鮮やかに残っていた。それに「丹下左膳」も「大江戸五人男」も場面の断片が記憶にあるし、「おぼろ駕籠」にもなんだか記憶があるような‥。ことほどさように映画漬けの幼い頃だったのだ。
そんな昔の映画だから、運びのテンポはのんびりと悠長なことこのうえないが、それでも伊藤大輔監督の「おぼろ駕籠」など娯楽映画としてはよく出来た一級品の代物で、ずいぶんと愉しめた。

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図版は面白いが、訳文がひどすぎる-エーコ編集の「美の歴史」「醜の歴史」

豊富な図版とこれらに付された引用文献の数々、その対置は博覧強記、Umberto.Ecoの躍如たるものではあろうが、如何せん翻訳が拙すぎる。訳者の川野美也子は「翻訳に関しては、原書に対応したレイアウトの関係上文字数に制限があったためと、著者の思考回路をなるべくストレートに辿っていただくためにあえて直訳に近い形にいたしました。」と記すが、直訳どころか逐語訳にもひとしく、文脈の辿れぬ熟さぬ日本語には辟易もいいところ。これではEcoの深意がどれほども伝わるまい。
これほど未熟な訳をもって、ぬけぬけと豪華本の如き体裁をなし、鳴物入りで出版する会社も非道いものだが、新聞などでお先棒を担ぐかのような書評を書いている有識の御仁たちには呆れかえるばかり。

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―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-170

6月30日、同前。晴、時々曇る、終日不快、万象憂鬱。
不眠が悪夢となつた、恐ろしい夢でなくて嫌な夢だから、かへつてやりきれない。
何もかも苦い、酒も飯も。
最後の晩餐! といふ気分で飲んだ、飲めるだけ飲んだ、ムチャクチャだ、しかもムチャクチャにはなりきれないのだ。
何といふみじめな人間だらうと自分を罵つた、-こんなにしてまで、私は庵居しなければならないのでせうか-と敬治君に泣言を書きそへた。

※句の記載なし、表題句は6月27日所収。

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Photo/川棚温泉、クスの森の大楠


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2011年6月18日土曜日

拾ふことの、生きることの、袋ふくれる

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―四方のたより― お出かけ二題

朝から岸里の関西芸術座スタジオへと出かけ、
東日本大震災被災地支援チャリティ公演と副題した、河東けい構成の「宮沢賢治を誦む」の午前の部を観る。
関芸の老優たち-失礼!-、おけいさんをはじめ、藤山喜子、小笠原町子、寺下貞信、山本弘、梶本潔ら、懐かしい顔ぶれと若手の劇団員たちによる協働の舞台は、舞踊家上甲裕久の振付も得つつ、抑制を効かせ過剰に陥らずあくまで静謐に進行した。観るべきほどの特段の表象があった訳ではないが、企画趣旨の取組みからしてそこまでは此方も期待していないから一応の納得。
とはいえ地下鉄岸里の駅から歩くのは遠い。この地の利の不便さが、関芸スタジオを使いにくいものにしている。本拠稽古場をそれまでの美章園から此の地へと移したのが’78年だったとすると、もう33年も以前のことだ。それなのに私自身、足を運んだのはこの日でたった二度目。それほどに外部団体などからの利用がきわめて乏しいということだろう。

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雨が激しくなってきたが、今日は夕刻からもう一つお出かけの予定。
陶芸の石田博君が、昨日から寝屋川の市民ギャラリーで個展を開催している。
個展のたびにいつも凝った案内状が届く。
今回は会場もずいぶんと広いらしく、タイトルどおり積年の作品群がひしめくようで、愉しめるのじゃないか。

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―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-169

6月27日、同前。曇、梅雨らしく。
朝蜘蛛がぶらさがつてゐる、それは好運の前徴だといはれる、しかし、今の私は好運をも悪運をも期待してゐない、だいたい、さういふものに関心をあまり持つてゐない、が、事実はかうだつた、東京から送金して貰つた、同時に彼女から嫌な手紙を受取つたのである。
二三日前からの寝冷がとうとう本物になつたらしい、発熱、倦怠、自棄-さういつた気持がきざしてくるのをどうしようもない。
小串へ出かける、月草と石ころを拾うてきた、途中、老祖母の事が思ひだされて困つた、父と私と彼女と三人が本山まゐりした時の事が、‥八鉢旅館の事、馬の水の事。‥‥
近来、妙な句ばかり出来る、私も老いぼれたのかも知れない、まだ老いぼれるには早すぎるが!

※表題句の外、4句を記す

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Photo/川棚、三恵寺の石仏たちに混じって


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2011年6月13日月曜日

ひさしぶり逢へたあんたのにほひで

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―四方のたより― しっかり-6159歩

久しぶりに早朝の散歩。
二日つづきの大雨がやっと霽れて、夏至も近い頃合の午前5時はすでに薄明りで、歩くにつれどんどん明るくなっていく。
住吉公園をぐるりと周回してから大社の方へと足を運んだが、どっこいいずれの門扉も閉じられていて、境内には入れない。開門は4月~9月は午前6時、10月~3月は午前6時30分と表札にあり、時計を見ればまだ5時半、やむをえず社塀に沿って南の方へ廻ると、ほぼ正方形の広い御田に出会す。
田圃の中央には櫓造りの舞台が設えられてあり、細
い橋懸りが手前の岸へと伸びている。明14日が例年行われる御田植祭だそうで、なるほど周囲にはテントが張られパイプ椅子も所狭しと並べられていた。
あまりご無沙汰だった所為か、歩き始めて30分も経つと、情けないことにへばってきて運びが緩む。やっぱり日々継続してなくてはダメだネと、ちょっぴり反省しつつも、あとはのんびりと歩いて帰参。
歩行計によれば「しっかり-6159歩-53分」とあった。

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記憶では70年代後半から80年代にかけてほぼ毎号のように購読していた青土社の月刊誌「現代思想」、30年ぶりになるか、特集「うつ病新論」の2月号を取り寄せ、このほど通読、雑誌をほぼ隅から隅まで読み切るなどとんと久しいことだけれど、私にとってはそうさせるだけの内容であった。
以下、参考になった論考を目次順に列挙しておく-
・立石真也「社会派の行き先-4」連載
・特集対談討議-内海健/大澤真幸「うつ病と現在性-<第三者の審級>なき主体化の行方」
・鈴木國文「<うつ>の味-精神科医療と噛みしめがいの薄れた<憂うつ>について」
・津田均「<うつ病>と<うつの時代>」
・熊木徹夫「<らしさ>の覚知-診断強迫の超克」
・村上靖彦「固有名とその病理」
・小泉義之「静かな生活-新しいことは起こらないこともありうる-アレント」
・粥川準二「バイオ化する社会-うつ病とその治療を例として」
・柳澤田実「ノンコミュニケーション-生の流れを妨げない思考のために」
・美馬達哉「ホモ・ニューロエコノミクスの憂うつ」

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-168

6月26日、同前。
曇、近郊散策、気分よろし、御飯がうまい、但し酒はうまくない、これも人生の悲喜劇一齣だらう。
蚤はあたりまへだが、虱のゐたのにはちよいと驚いた、蝿や蚊はもちろん。
-略- 青龍園-妙青寺境内、雪舟築くところ-を改めて鑑賞する、自然を活かす、いひかへれば人為をなるたけ加へないで庭園とする点に於てすぐれてゐると思ふ、つゝじとかきつばたとの対照融和である-萩が一株もう咲いてゐた-。
午後はあてどもなく山から山へ歩く、雑草雑木が眼のさめるやうなうつくしさだ、粉米のやうな、こぼれやすい花を無断で貰つて帰つた。
おばさんが筍を一本下さつた、うまい、うまい筍だつた、それほどうまいのに焼酎五勺が飲みきれなかつた!-明日は間違なく雨だよ!-
ほんたうに酒の好きな人に悪人がゐないやうに、ほんたうに花を愛する人に悪人はゐないと思ふ。
改造社の俳句講座所載、井師の放哉紹介の記録を読んで、放哉は俳句のレアリズムをほんたうに体現した最初の、そして或は最大の俳人であると今更のやうに感じたことである。
「刀鋒を以て斬るは勝つ」、捨身剣だ、投げだした魂の力を知れ。
-略- 今朝はめづらしくどこからも来信がなかつた、さびしいと思つた、かうして毎日々々遊んでゐるのはほんたうに心苦しい、からだはつかはないけれど、心はいつもやきもきしてゐる、一刻も早く其中庵が建つやうにと祈つてゐる。‥‥
近頃また不眠症にかかつて苦しんでゐる、遊んで、しかも心を労する私としては、それは当然たらうて。

※表題句には「緑平老に」前書あり、この句の外7句を記す

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Photo/妙青禅寺境内の雪舟作と伝えられる庭


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2011年6月10日金曜日

待つてゐるさくらんぼ熟れてゐる

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―表象の森― 「江戸の紀行文」を読む

著者板坂耀子は’46年生れ、昨年3月、福岡教育大教授を定年退官した、と。
曰く、芭蕉の「おくのほそ道」は名作だが、江戸時代の紀行としては異色の作であり、作為に満ちて無理をしている不自然な作である。この異色の名作「おくのほそ道」でもって、江戸期に花開いた二千五百二余る数多の紀行が、正当な評価も得ることなく、文学史から顧みられることなく終始してきたことに対し、まず一石を投じ、俳諧の世界ではともかく、紀行作家たちの中では、芭蕉の影響は皆無に近く、彼やその作品と関係ない場所で、近世紀行を生み育てる営みは行われていた、と。
その背景には、「参勤交代というシステムが、各大名を軸として中央の文化と地方の文化を上手に混ぜ合わせ-略-、各藩毎の地方文化を、少なくともその上澄みの部分に於いては極めてハイ・レベルで均質なものとする事に成功した。」という中野三敏-西国大名の文事-の説を引き、旅が娯楽化し、都から鄙へという図式が崩れていったことがある、と。

芭蕉より少し時代を下った江戸中期の上田秋成が、紀行「去年の枝折-コゾノシヲリ-」の中で、旅先で会った僧の意見として、芭蕉に対し悪態をついているとして引用している。
「実や、かの翁といふ者、湖上の茅檐、深川の蕉窓、所さだめず住みなして、西行宗祇の昔をとなへ、檜の木笠竹の杖に世をうかれあるきし人也とや、いともこゝろ得ね。-略- 八洲の外行浪も風吹きたゝず、四つの民草おのれおのれが業をおさめて、何くか定めて住みつくべきを、僧俗いづれともなき人の、かく事触れて狂ひあるくなん、誠に尭年鼓腹のあまりといへ共、ゆめゆめ学ぶまじき人の有様也とぞおもふ。」

以下、二章から十章までほぼ時代を追って、異色の芭蕉ならず、主流となった江戸紀行の作者たちを紹介していく。
名所記としての、林羅山「丙辰紀行」-1616頃-
寺社縁起としての、石出吉深「所歴日記」-1664頃-
実用性と正確さに徹した、博物学者貝原益軒の紀行「木曽路紀」-1685-「南遊紀事」-1689-
益軒の曰く、「詩のをしへは温厚和平にして、心を内にふくみてあらはさず。是、風雅の道、詩の本意なるべし。-略-ことばたくみにしかざり、ことやうなる文句をつくりて、人にほめられんとするは、詩の本意にあらず。故に詩を作る人、学のひまをつひやし、心をくるしむるは、物をもてあそんで、志をうしなふ也。かくの如くにして詩を作るは、益なく害ありて無用のいたづら也。風雅の道をうしなへり。歌を作るも又同じ。」-文訓-

古学者本居宣長の「菅笠日記」-1795-
宣長は、見るもの聞くもののみならず、自らの心の内にわきおこる、さまざまな相反する感情まで何一つ切り捨てず、最大限にとりいれてこの紀行を書こうとした。彼の文体は、明晰で平明で、かつ雅文の格調や品位を失うことがない。益軒が生み出した力強さや多彩さをとりいれつつ、ひとりの個人の内面を描く古来からの日記文学とも合体し、新しい時代の紀行文学として成立させている、と。

奇談集としての、橘南谿「東西遊記」-1795頃-
古川古松軒の蝦夷紀行「東遊雑記」-1788頃-
女流紀行としての、土屋斐子「和泉日記」-1809頃-
江戸紀行の集約点としての、小津久足「青葉日記」

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<日暦詩句>-30-
なんといふ駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
真っ黒なかたまりが
投げこまれる
 -石原吉郎詩集「サンチョ・パンサの帰郷」所収「葬式列車」より-昭和38年-

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-167

6月25日、同前。晴后曇、梅雨の或る日は、といつたやうな気分。
朝焼けはうつくしかつた-それは雨を予告するのだが-、自然のうつくしさが身心にしみいるやうだつた。
朝、青草-壺に投挿すために-5.6本を摘んだ、露も蜘蛛もいつしよに。
燕の子が、いつのまにやら巣立つてゐる、それらしいのがをりをり軒端近く来ては囀づる。
水田もまた、いつのまにやら、いちめんの青田となつてゐる、そして蛙が腹いつぱいの声でうたうてゐる。
生きのよい鯖が一尾8銭だつた、片身は刺身、塩焼きにして食べた、おいしかつた、焼酎一合11銭、水を倍加して飲んだがうまくなかつた。
たしかにアルコールに対する執着がうすらぎつつある、酒を飲まないのではなくて飲めなくなるらしい、うれしくもあり、かなしくもあり、とはこのことだ。
捨てられて仔猫が鳴きつづけてゐる、汝の運命のつたなきを鳴け、といふ外ない。
新聞配達の爺さんが、明日からは魚を持つてまゐりますから買うて下さいといふ、新聞と生魚! 調和しないやうで調和してゐると思ふ。

※記載は表題句のみ。

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Photo/妙青禅寺境内にある山頭火句碑


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2011年6月1日水曜日

蝿がうるさい独を守る

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―四方のたより― 承前、ふたり旅Repo-2
4月30日、曇、宿で朝食を摂って津和野を発ったのは午前9時頃、またも国道9号線へ出て一路山口市へと向う。街の中心部を通り過ぎるとやがて小郡。その小高いあたりに山頭火の其中庵がある。以前に訪れたのはかれこれ15.6年前になるのだろうか、復元されたのが平成4年というから成ってまだまもない頃だった訳だ。
其中庵を後に、今度は国道2号線を走って下関市へ入り、川棚温泉へと向うため国道491号線へ。

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  Photo/其中庵前庭の句碑「母よ、うどんそなへてわたしもいたゞきまする」

川棚に着いたのはもう昼近く。此の地に庵居を求めた山頭火が、昭和7年6月から百余日滞在したという宿の木下屋は、妙青禅寺山門下に山頭園と名を変えて今も残っている。寺の本堂裏には小ぶりながら瀟洒な佇まいの雪舟築庭。門前の坂道を少し下った所にはモダンな建築の川棚温泉交流センター。
卵白などのアレルギーがあるKAORUKOに瓦そばは無理だろうと、昼食には近くのイタリアンカフェでパスタを賞味。
腹も満たされ、次に訪れたのがこんもりと茂った森深くにある三恵-さんね-寺。愛敬たっぷりにさまざまな表情をたたえた石仏たちに混じってパチリ。
それからまた少し車を走らせて川棚のクスの森へ。この大楠殿にはKAORUKOもさすがにビックリの態。

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  Photo/三恵寺境内の石仏たちと

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  Photo/大楠を背景にKAORUKO

これで川棚ともおさらば、山陰本線と並行するように国道191号線を北上するが、数キロも走らないうちに海岸近くの小高いところにあって、遙か洋上に北九州の山脈や壱岐を見はるかす福徳稲荷神社へと立ち寄る。

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  Photo/海辺の山腹に建つ福徳稲荷神社

次に目指すは2000年の完成以来、山口県下で人気の観光スポットになったという角島大橋。響灘の海岸沿いをしばらく北上すると、やがて191号と分かれて県道275号となるが、それも5分ばかり走って左へ折れると、全長1780m、中ほどにアップダウンのあるラインが碧い洋上に浮かんでいるのだが、折悪しく天気は雨混じりの荒れ模様。
車から降りてゆっくり眺めるほど時間もないから、ただ角島へと渡って折り返すのみ。

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  Photo/雨にけむる角島大橋

あとは長門の仙崎を目指してひた走る。仙崎の港に着いたのはかれこれ午後4時半頃だったろう。
今夜の宿のある青海島へ渡る前に、金子みすゞの記念館に立ち寄る。いまどきの子どもにとってみすゞの詩はお馴染だ、KAORUKOも小3の教科書に出てきた「不思議」ですでにご対面している。

 「私は不思議でたまらない、
  黒い雲からふる雨が、
  銀にひかっていることが。」
 「私は不思議でたまらない、
  青い桑の葉たべている、
  蚕が白くなることが。」
 「私は不思議でたまらない、
  誰もいじらぬ夕顔が、
  ひとりでぱらりと開くのが。」
 「私は不思議でたまらない、
  誰にきいても笑ってて、
  あたりまえだ、といふことが。」

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  Photo/みすゞ記念館の金子文英堂

館内を一巡して、金子文英堂の玄関を出ると、真向かいに「みすゞこうぼう」の看板があったので、そろりと入ってみると、60年配のおじさんが独り、ぼそっと座っていた。
もりいさむというその御仁、みすゞの詩ばかり90編も曲にのせて唄っているというフォークシンガーだそうで、話をしているうちに興が乗ったか、店の奥に設えた小さなstageで一曲ご披露していただいたので、お礼に彼のCDを買い求めてサヨナラした。

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  Photo/みすゞの詩を唄うへんな小父さんもりいさむ氏と

橋を渡って青海島の宿へ着いたのが午後6時過ぎ。此処では夕食の予約をしていないので、ひとしきり寛いでからまたぞろ仙崎の町へと車で出かける。アレルギー体質の所為でとかく偏食のKAORUKOには寿司なんぞがよかろうと、港に面した店で舌鼓。
翌朝、小さな旅のちょっとしたアクセントにと、船で青海島めぐりをするべくまたも仙崎の港へ。海からぐるりと青海島を一周するコースで、所要時間が90分、大人2200円と小学生1100円、計3300円也。乗船待ちのあいだに開けたばかりの土産物屋の軒先で名代の蒲鉾を買い求めた。
雨まじりの風が吹きつける荒れ模様の天候のなか、定員30人ばかりの小さな船が島を廻って外海へとピッチをあげる。そそり立つような断崖、数々の奇岩や洞窟など、次から次と経巡って船は走る。その景観と船の運びのリズムがずいぶんと変化に富んでいた所為か、心配された船酔いもなくKAORUKOは元気にタラップを降りた。

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  Photo/青海島奇岩の一、仏岩

このぶんならこのまま帰路に向かわず、昨日立ち寄れなかった油谷の棚田へと遠回りしても大丈夫とみて、国道191号を引き返す。
油谷の東後畑あたりは、もう11時を過ぎているというのに深い霧の中、棚田の絶好ポイントも視界はまったく霞んでいるばかりで、わざわざ来たのにこれでは拍子抜け。このまま立ち去る訳にも行かず、狭い農道を海岸線の方へとさらに降りていけば、霧も切れてきて、やっと棚田の景色とご対面が叶い、不承々々ながらもとりあえずは納得。

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  Photo/油谷東後畑の棚田

あとは一目散に帰路をとる。191号線から美祢線の316号線へ、美祢INから中国道、山口JCから山陽道と、途中三度のトイレ休憩を挟んで、530km余りをひたすら走らせるも、案の定、三木JCの手前あたりから渋滞の憂きの目に。挙げ句、宝塚トンネルまでの渋滞を抜けるのに1時間半を要したものの、午後7時前には無事三日ぶりのご帰還となった。


―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-166

6月24日、同前。やうやく晴となつた。
妹から心づくしの浴衣と汗の結晶とを贈つてくれた、すなほに頂戴する。
血は水よりも濃いといふ、まつたくだ、同時に血は水よりもきたない。
小串へ出かけて、予約本二冊を受取る、俳句講座と大蔵経講座、これだけを毎月買ふことは、私には無理でもあり、贅沢でもあらう、しかし、それは読むと同時に貯へるためである、此二冊を取り揃へて置いたならば、私がぽつかり死んでも、その代金で、死骸を片づけることが出来よう、血縁のものや地下の人々やに迷惑をかけないで、また、知人をヨリ少く煩はして、万事がすむだらう-こんな事を考へて、しかもそれを実行するやうになつただけ、私は死に近づいたのだ-。
近来、水-うまい水を飲まない、そのためでもあらうか、何となく身心のぐあいがよろしくない、よい水、うまい水、水はまことに生命の水である、ああ水が飲みたい。
蝿取紙のふちをうろうろしてゐる蝿を見てると、蝿の運命、生きもののいのち、といつたやうなものを考へずにはゐられない。
終日終夜、湯を掘つてゐる、その音が不眠の枕にひびいて、頭がいたんできた。
今日は書きたくない手紙を三通書いた、書いたといふよりも書かされたといふべきだらう、寺領借入のために、いひかへれば、保証人に対して私の身柄について懸念ないことを理解せしめるために、-妹に、彼に、彼女に、-私の死病と死体との処理について。-
鬱々として泥沼にもぐつたやうな気分だ、何をしても心が慰まない、むろん、かういう場合にはアルコールだつて無力だ、殊に近頃は酒の香よりも茶の味はひの方へ私の身心が向ひつつあることを感じてゐる-それは肉体的な、同時に、精神的なものに因してゐると思ふ-。

※この日句作なし、表題句は6月21日所収

「書きたくない三通の手紙」-その相手、妹は防府近在大道の富農家に嫁いだという3歳下のシズのこと、彼は息子の健だが、この頃は秋田県の鉱山専門学校に在籍していた筈、そして彼女はむろん別れた妻咲野、熊本市内で二人ではじめた文具屋「雅楽苦多」を独りで営んでいる。

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  Photo/妙青禅寺の鐘撞堂

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