2010年11月27日土曜日

ボタ山なつかしい雨となつた

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―表象の森― 辻邦生「小説への序章」

ぽつりぽつりと読み進んでやっと「小説への序章」-1967年初刊、辻邦生全集15所収-読了。
辻邦生といえば「西行花伝」を読んでいたきりだったが、先程、北杜夫との往復書簡「若き日の友情」にはじまって、長編「背教者ユリアヌス」を読み、この評論に到つていた。

高踏的かつ粘着質の、精緻な言葉の連なり、読む者を否応なく深遠な文芸の森へと惹き込まずにいられぬ、こういったものに触れていると、自身の来し方が蜉蝣のごとき淡く泡沫のものにもみえ、もし叶うものなら、まだなにも知らない幼かった頃に立ち返って、もう一度生き直してもみたいなどと、そんな妄執に憑かれもする。

以下は、本書の結語に置かれた一文より―

小説こそは「嘆き」の徹底からうまれてくる時間の究極的な「反転」によって現前する「祝祭としての時間」である。小説は読者にかかる時間のもつ積極的な効果を通し「物語的形態」という全一的な同体感を与える装置によって時代の達成した、眼に見えない本質の生を生活させるところに、より本源的な役割をもつ。
小説の中に「よろこばしく限定」された具象的世界は意味の世界となって、霧の中からカテドラル-寺院-が現れてくるように、堅固に生き生きと現れてくる。われわれは小説の世界を生きることによってわれわれをとりまく現実の生活をもう一度象徴的に生きるのである。「生」を純粋によろこびとして生きるのである。われわれは小説という行為によって無意味な偶然的な空間を真に人間的な空間へと「反転」させ、神秘的な共同体的な非合理性ではなく、人間としての生命を快復する可能性を創造するのだ。
この意味で小説はわれわれの理性の支配の進む方向に、より意味深い役割を担いつづけるであろう。そして小説が物語という古い過去の泉から尽きない水を汲みだすとすれば、この物語の行為は太初にかえる行為であり、しかし太初の蒙昧へでなく、太初の純粋にかえる行為であるといいうるであろう。

―山頭火の一句― 行乞記再び -117
4月27日、晴、后曇后雨、後藤寺町、朝日屋

雨ではあるし、酔はさめないし、逢ひたくはあるし、-とても歩いてなんかゐられないので、急いで汽車で緑平居へ、あゝ緑平老、そして緑平老妻!
泊るつもりだったけれど、緑平老出張となったので私もここまで出張した。

※表題句の外、10句を記す

炭坑節発祥の地とされる田川市は、1943-S18-年、後藤寺町と伊田町が合併してなった。

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Photo/日田彦山線の田川後藤寺駅ホーム

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Photo/田川市内から香春岳を望む


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2010年11月24日水曜日

ルンペンとして二人の唄□

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―日々余話― 8年ぶり、黄葉の熊野路

休日を利用して日帰りの熊野路、処々に見られた銀杏の大木の黄葉ぶりは、陽光を浴びて見事なものだった。
JR和歌山駅の東側付近にある東横インで、茶谷祐三子を乗せて、4人連れの道中となった往路、以前なら吉備インターを降りて、山間路を中辺路へと入ってゆくのだが、このたびは時間に余裕もないことから、平成19年に南紀田辺まで伸びたという阪和道路をそのまま走らせた。
近露に着いたのはもう1時近く、今春オープンなったという、食事処や特産品販売を集めた観光施設、その名も熊野古道ちかつゆを眼前にしたときは、古道を訪れる人や車の多いこととともにそのさま変わりように驚かされた。

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インド舞踊の茶谷祐三子が、この近露のはずれ、日置川上流にある小さなログハウスに居を移したのは6月、もう5ヶ月にもなろうというが、その間、イベントなどがあるたび各地を経巡っているというから、実際にはその半分も滞在していないのだろう。
そのログハウスは、日置川の岸辺に建つ民宿まんまるを経営する主人の所有といい、そこから急斜面を少しばかり登った山際にあった。

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家族3人と彼女と、遅い昼食やらしばしの語らいに時を過ごすも、付近を散策するなどの時間の余裕もなく、大塔村平瀬の稲文醸造さんへと向かう。
稲垣夫妻とは、娘が生れて5ヶ月余りの頃だったから、8年ぶりの再会、こんなにご無沙汰になろうとは思いもしなかったのだが‥、やっと訪ねることが出来た。互いに年を重ねて老いの風貌が覗く。
短い逢瀬だったが、細君は相変わらず能弁で、話はあちこち弾んで愉しかった。
山家の日暮れは早い、すっかり黄昏れた5時頃に辞し、何度も合宿に使わせてもらった懐かしの旧い校舎をあとにした。

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―表象の森― 三位一体の図像学

宗教学専攻の編集者でもあり翻訳家でもあるという中村圭志の「信じない人のための<宗教>講義」、
神をコカコーラの缶に喩えると、父、子、聖霊は、それぞれ缶の上面、底面、ぐるっと回った側面の三つに相応する、即ち三位一体。
この缶をテーブルの上に立てる、テーブルは人間世界、広い面上に救いを求める哀れな衆生がうごめいている、そこに神=コーラの缶が出現する、といったかたち。缶の底面と机との接触面がイエス・キリスト、この円い接触面は缶の底面-子なる神-として神に属するが、同時に机の面でもあるから、併せて人間界にも属し、キリストには神と人間の二重性があることに。
このように人間の歴史的世界という苦界-机の面-と神なる救済の原理-コーラの缶-との境界面にあるキリストは、たんなるシンボルでも絵物語の登場人物でもなく、歴史的人物であることによって救済のリアルな根拠が示される。キリストは人間であり、かつ神でもあった、ここに信仰の要訣がある‥、と。

―山頭火の一句― 行乞記再び -116
4月26日、曇后晴、市街行乞、宿は同前。

雲雀の唄-飼鳥-で眼が覚めた、ほがらかな気分である、しかしぎょうこつしたいほどではない、といつて毎日遊んではゐられないので-戸畑、八幡、小倉では行乞しなかつた、今日が五日ぶりで-5時間行乞、行乞相は悪くなかつた、所得も、世間師連中が取沙汰するほど悪くもなかつた。

朝のお汁で山椒の芽を鑑賞した。
花売野菜売の女群が通る、通る。
午後はまつたく春日和だつた。

このあたりを勘六といふ、面白い地名である、そして安宿の多いのには驚いた、3年ぶりに歩いてみる、料理屋などの経営難から、木賃宿の看板をぶらさげてゐるのが多い、不景気、不景気、安宿にも客が少ないのである、安宿がかたまつてゐるのは、九州では、博多の出来町、久留米の六軒屋、そしてこの勘六だらう。
遠賀川の河床はいいと思つた、青草の上で、放牧の牛がのそりのそり遊んでゐる、-旅人の眼にふさはしい。

洗濯したり、整理したり、裁縫したり、身のまはりを少しきれいにする、男やもめに蛆がわく、虱がぬくいので、のそのそ這ひだして困りますね!

夜は三杯機嫌で雲心寺の和尚を攻撃した、鮭、鮭、そして酒、酒よりも和尚はよかつた、席上ルンペン画家の話も忘れない、昆布一壜いただいた。

※表題句の□字は不明、その他に1句を記す

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Photo/遠賀川に架かる昭和9年竣工の勘六橋-老朽化で現在架替が検討されている-。

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Photo/勘六橋付近の遠賀川河床風景

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Photo/勘六橋から僅か200m余下流に架かっている沈下橋


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2010年11月17日水曜日

風の中から呼びとめたは狂人だつた

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―日々余話― 無事終了、なれど‥

日曜日-15日-、場所は弁天町の大阪ベイタワーホテル、71名の同期生と二人の恩師が集った三年ぶりの同窓会は、冒頭の受付段階からまったく意想外のトンデモ事件を惹起しながらも、まずまず賑やかに愉しく、成功裡に終わったといえるだろう。
それもこれも、ゲスト出演してもらった現役高校生たち吹奏楽部の、総勢68名による演奏会あってのことであった。
73名の老年男女の群れに、ほぼ同数の68名、孫のような若い演奏団が、対峙するという特異な場面の現出だけで、参加者ひとり一人の胸にどんな感懐が去来するものか、そんなことは少しばかり想像しただけで見当がつきそうなものだが、いかんせん幹事諸氏のなかにはこれを予期できない者たちが大半であったのは、ちょっぴりカナシイ。

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―表象の森― ハングルとはどういう言語か

ハングルの祖型「訓民正音」成立の詳細な背景などから説きだす野間秀樹著「ハングルの誕生」-平凡社新書-は、歴史的にも言語論的にも非常におもしろく興味つきない書である。
このほど本書は、毎日新聞社と社団法人アジア調査会が主宰するアジア・太平洋賞-第22回-の大賞を受賞したという。

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以下はその選考委員でもある田中明彦氏による毎日新聞掲載評-11/14-からの引用-
著者は20世紀言語学のさまざまな概念を紹介しつつ、ハングルが、音素、音節、形態素の三層を一つの文字のなかに透明な形で併存させる極めて精巧な文字であることを、読者の知的好奇心を満たすように次から次へと論証する。
音素も音節も形態素も、いうまでもなく現代言語学の概念であって、ハングルの創造者たちは、この現代的概念を15世紀にすでに自家薬籠中のものとしていたのであった。
もちろん、いかに優れた文字も発明されただけで真の文字になるのではない。使われなければ、文字として「誕生」しないのである。本書後半は、漢字漢文原理主義の強固であった韓国で、どのようにしてハングルが国民の文字としての地位を獲得していったかの経緯の叙述であり、この部分もまた読み応えがある。
ハングルの誕生は、東アジア文化の歴史の中での一大事件であった。ハングルの誕生を語りつつ、本書は、日本語も含め東アジアにおけるきわめて興味深い言語史ともなっている。本書によって得られる東アジア文化理解は大きい。-略-

―山頭火の一句― 行乞記再び -115
4月25日、行程7里、直方市郊外、藤田屋

どうしても行乞気分になれないので、歩いて、ただ歩いてここまで来た、遠賀川風景はよかつた、身心がくつろいだ。
風が強かつた、はじめて春蝉を聞いた、銀杏若葉が美しい、小倉警察署の建物はよろしい。
此宿はほんたうによい、すべての点に於て-最初、私を断つたほどそれほど客を選択する-。

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Photo/遠賀川の風景-1

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Photo/遠賀川の風景-2


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2010年11月13日土曜日

晴れたり曇つたり籠の鳥

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―世間虚仮― 深刻、就職氷河期

若者受難の就職氷河期はいよいよ深刻さを増しているようだ。
今朝の新聞によると、大学生の就職内定率が、10月1日時点で、最低を記録しているという。全国平均で57.6%、大都市が集中する関東圏でも61.0%、近畿圏では60.5%といずれも過去最低だった昨年の同時期をさらに割り込んでおり、とくに理系の下げ幅は大きく過去最大だそうな。
但し、この調査比較はバブル崩壊後の就職氷河期が始まった頃、96年以降のものらしいが‥。
それにしても若者たちにとっては過酷な状況だとつくづく思わされる。

―表象の森― 埒をあける

どうにも低調だった読書ペースが少しばかり回復してきている。
前回に引き続き、石田梅岩の語録から「手前ヲ埒アケル」。
いにしえの和語の用法というものは、直観的に感応はできるものの、理において得心するのはなかなか難しい。
「埒」とは、白川静「字通」によれば、声符は寽-ラツ-、[説文]に「庳-ひく-き垣なり」とあり、ませがきの類をいう。小さな土垣-ドエン-や、また馬場の柵などをもいう。競べ馬を見る人は、柵外で久しく待たされるので、漸く入場が許されることを「埒が開-ア-く」という。上賀茂神社の神事である競べ馬から出た話されている、と。

松岡正剛は「千夜千冊」第807夜で、石田梅岩の「都鄙問答」を採りあげ、「手前ヲ埒アケル」について念入りに説いている。
「‥、自分の性格の積層構造を知ることだ。雲母のように重なっている性格の地層をひとつひとつ知る。-略-、そして、いったいどの層に自分のふだんの悪癖が反射しているかを突きとめる。そのうえで、その使い慣れてしまった性格層を別の性格層での反射に変えてみる。」
或は、「自分という性(さが)をつくっているのは、年代を追って重なってきた自分の地層のようなものである。性層とでもいうべきか。その層を一枚ずつ手前に向かって剥がしていく。そうすると、そのどこかに卑しい性格層が見えてくる。そこでがっかりしていてはダメなのだ。そこをさらに 埒をあけるように、進んでいく。そうするともっとナマな地層が見えてくる。そこを使うのだ。
だから、別の性格に変えるといっても、別種の新規な人格に飛び移ろうとか、変身しようというのではなく、自分の奥にひそむであろう純粋な性層に反映して いる性格を、前のほうに取り出せるかどうかということなのだ。このように使い慣れた性格を剥がすこと、あるいは新たな性格を取り戻すことを、それが<手前の埒をあけていく>なのである」、と。

以下は未記載の8、9月の購入本など。10月以降は次回にでも‥。
-8月の購入本-
・結城浩「数学ガール - フェルマーの最終定理」SoftBank
・渡辺公三「闘うレヴィ=ストロース」平凡新書
・野間秀樹「ハングルの誕生 - 音から文字を創る」平凡新書
・梯久美子「散るぞ悲しき - 硫黄島総指揮官栗林忠道」新潮文庫

-9月の購入本-
・結城浩「数学ガール - ゲーデルの不完全性定理」SoftBank
・辻邦生/北杜夫「若き日の友情 - 辻邦生・北杜夫往復書簡」新潮社
・梯久美子「硫黄島 - 栗林中将の最期」文春新書
・松原久子「驕れる白人と闘うための日本近代史」文春文庫

-図書館からの借本-
・大井玄「環境世界と自己の系譜」みすず書房
著者は内科医にして元国立環境研究所所長。認知症診察、エイズ研究、唯識、文化心理学、脳科学、歴史学、そして社会経済学まで、幅広く深い実践と思索が結晶した、類い稀なる未来への提言。

現在の地球環境危機をまねいた要因は、<開放系>と<閉鎖系>という相異なる社会環境の系譜にある。「ヒトは、歴史的にその生活・文化・環境へ適応しなが ら、自己観や生存戦略意識としての倫理意識を形成してきた。狭く貧しい〈閉鎖系〉で譲り合い助け合う生存をつうじて、典型的日本人のつながりの自己観と<関係志向>の倫理意識が作られた。広漠たる<開放系>で競争し、闘いながら欲望追求の自由をつうじて、アトムのようなアメリカ人の自己観と<個人志向> の倫理意識が形成されてきた」。

競争型社会と協調型社会が成立するための生存戦略は、環境世界と自己観のあり方に動機づけられる。開放系-資源と領土が無限にひろがっている状態-としての古代ギリシアから開拓期アメリカ、閉鎖系-資源も領土も限られている状態-としての古代日本から江戸時代へと文 明史をたどりながら、自立自尊の<アトム的自己>によって富の分極化を加速させるグローバリズムから、<つながりの自己>によって他者や環境へ配慮する来 るべき倫理への転換を模索する。

・中村圭志「信じない人のための<宗教>講義」みすず書房

―山頭火の一句― 行乞記再び -114
4月24日、

雨、春雨だ、しつぽりぬれる、或はしんみり飲める、そしてまた、ゆうぜん遊べる春雨だ、一杯二杯三杯、それはみな惣三居士の供養だ。
朝湯朝酒、申分なくて申分があるやうな心地がする、さてそれは何だらう。

読書、けふはすこし堅いものを読んだ。
昨夜はたしかに酔うた、酔うたからこそエロ街を散歩したのだが、脱線しなかつた、脱線しないといふことはうれしいが、同時にかなしいことでもある-それは生活意力の減退を意味するから、私の場合に於ては-。

此宿はよかつた、よい宿へとびこんだものだと思つた、きれいで、しんせつで、何かの便利がよろしい。
同宿4人、老人は遊人だらう、若者は行商人、中年女は何だか要領をえない巡礼さん、最後の四十男はお稲荷さん、蹴込んで張物の狐をふりまはす営業、おもしろい人物で、おしやべりで、苦労人で辛抱人だ。
夕方、そこらを散歩する、芭蕉柳塚といふのがあつた、折からの天神祭で、式三番叟を何十年ぶりかで見た、今夜はきつと少年の日の夢を見るだらう!

※表題句の外、1句を記す

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Photo/「八九間 空で雨降る 柳哉」と芭蕉の句が書かれた芭蕉柳塚

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Photo/芭蕉柳塚のある小倉の安国寺


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