2011年12月26日月曜日

梅がもう春近い花となつてゐる

Meikyu_01

―日々余話― 凝り型となって‥

久し振り、一ヶ月余を経ての言挙げである。
Facebookを始めたのが8月下旬頃だった-
Twitterに比べれば、お互いの正体がはっきりしているのが性に合ったのだろう、とりわけ10月に入る頃から友達をどんどん増やして、ずいぶん凝り型になってしまい、また本も読みたい、読まねばならぬ‥と、その反動でBlogがとんと書けなくなった。

凝り型になったについては、思いあたりそうなもう一つの訳がある。
これを始めた頃より、ちょうど時を同じくして、新しい稽古場づくりを模索しだしたことだ。
場所の候補は生まれ里の九条、永らく空いたままの、到底新しい借り手も見つかるまいと思われる20坪余りの倉庫だ。高さは優に二階ほどもあるから小さな小屋-劇場型-にも出来なくはない。
そんな色気も出てきたから大変だ。言うほどの資金力もない、むしろないない尽くしで無謀にも芝居小屋をものしようというのだから、厚顔と言えば厚顔、まことに厚かましいような話だが、誼を頼っての小屋づくりとて、思うに任せず、事はなかなか捗らない。まあ来年の春のうちに柿落し、ともなれば上々の運びだろう。

かように稽古場づくりから、それのみならず小屋利用も視野に入ってきたからには、同根同類の知友をこの際ひろげておくに如かず、とそんな思惑も働いての、Facebook-凝り型の当今なのだろう。


―山頭火の一句― 其中日記-昭和9年-256

2月4日
明けてうらうらだつたが、また曇つて雪がふりだした。
身心不調、さびしいとも思ひ、やりきれないとも感じたが、しかし、私は飛躍した、昨夜の節分を限界として私はたしかに、年越しをしたのである。
朝、冷飯の残りを食べただけで、水を飲んで読書した、しづかな、おちついた一日一夜だつた。

-第三句集「山行水行」に挿入する語句二章
〈庵中間打坐〉
山があれば山を観る
雨のふる日は雨を聴く
春 夏 秋 冬
受用してつきることがない

 〈一蜂千家飯〉
村から村へ
家から家へ
一握の米をいただき
いただくほどに
鉢の子はいつぱいになつた

※この日句作なし、表題句は翌5日付記載の句

010908034

Photo/防府アスピラートに於ける山頭火展にて-01.09.08


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