2010年7月2日金曜日

さくらが咲いて旅人である

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―表象の森― 土門拳の鬼

いい写真というものは、写したのではなくて、写ったのである。計算を踏み外した時にだけ、そういういい写真が出来る。僕はそれを、鬼が手伝った写真といっている。-「肖像写真について」1953年-

ぼくは心のふるさとへ帰るように、日本の古典、弘仁彫刻と文楽人形浄瑠璃の撮影に没頭した。昭和16-1941-年12月8日、対米宣戦布告の号外を見たのも、大阪四ツ橋の文楽座の楽屋だった。留守宅に赤紙が来てやしないかと、いつもあやぶみながら、空きっ腹をかかえて、寺から寺への旅をつづけていた。-「古寺巡礼」1963年-

報道写真家としてのぼくも、今日ただ今のアクチュアリティのある問題と取組んで、現場の目撃者として火柱の立つような告発なり、発言なりを行いたい。-「デモ取材と古寺巡礼」1968年-

死も生も絶対なのは、それが事実であるからだ。運命というようなメタフィジカルな思考を離れてむ゜、それは事実そのものとしての絶対性において、人間の全存在を決定している。それは、死か生かというような決定的な瞬間を定着するだけでなく、日常茶飯のすべてをも、その連鎖の上に成立させている。-「死ぬことと生きること」1974年-

ぼくに対する憎悪と反発、それはとうてい長い時間そのままではいられない爆発寸前の状態だった。ぼくは梅原さんの全身から、殺気に似たものを感じた。何よりも、ガバッと起ち上がって、カメラほけとばしはしまいかと、と恐れた。ぼくは、咄嗟のり間にもカメラを引抱えてうしろー退けるよう、油断なく気を配りながら、シャッターを切った。そして、もはやこれまでと思い、「有難うございました」と、お辞儀した。
梅原さんは、むっくり起ち上がった。籐椅子を両手で一杯に持ち上げた。そして、「ウン」と気合もろとも、アトリエの床へ叩きつけた。すさまじい音だった。一瞬しーんとした。
-「風貌」1953年、玄関払いを食わせるような手強い相手ほど、かえっていい写真が撮れる、という土門と、写真嫌いで知られた梅原龍三郎の、火花が散るような対決のエピソードである。-

―山頭火の一句― 行乞記再び -89
3月30日、晴、宿酔気味で滞在休養。

旅なればこそ、独身なればこそである、ありがたくもあり、ありがたくもない。-略-
昨夜は酔うたけれど脱線しなかつた、脱線料がないからでもあつたらうが、多少心得がよくなつたからでもあらう、-略-

同宿の老人がいろいろしんせつに宿の事や道筋の事を教へて下さつた、しつかりした、おちついた品のよう老人だつた、何のバイ-商売-か知らないが、よい人が落ちぶれたのだらう。

私はさつぱりと過去から脱却しなければならない、さうするには過去を清算しなければならない、私は否でも応でも自己清算に迫られてゐる。

※表題句の外、2句を記す

07010
Photo/相浦富士とも称される愛宕山と相浦川河口付近

07011
Photo/黒島天主堂で名高い九十九島最大の黒島へは、相浦港からフェリーで渡る


07012

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