2011年10月15日土曜日

秋の空から落ちてきた音は何

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―日々余話― 御年10歳を機に‥

秋もたけなわの10月半ばというに、昨日来の豪雨とは、些か憂鬱‥。
KAORUKOも今日で御年10歳なり、57歳のときの子であるから、いわば自身の老いとともに歩んできたことになるが、生後より来し方をふりかえれば、早いといえば早くもあり、またずいぶんとのんびりした歩みであったとも思えるが、爾後の10年は、加速度的に早まりこそすれ、これまでのような悠長なことはないのだろう。

この日を記念してという訳ではないのだが、この機に乗じてといえばあたらずとも遠からず-、
連れ合いのJUNKOと共に暮らすようになってからでもすでに15年、付合いはじめたのはさらにその4年前だから、19年の長きにわたってということになるが、この歳月、彼女の両親たちと私自身はまったく没交渉のままで、まともな挨拶をしてこなかったのを、お互い老いの旅路をゆくばかりの身となれば、いつまでも打棄っておく訳にもいくまい、そろそろケジメをつけるべきかと思い、明日の夜まことにささやかながら一席設けることにしたのである。
先方は、両親と、それに姉と兄、此方はKAORUKOを随えての3人だから計7人、此方から呼びかけた宴席なれば、挨拶の口火をきらずばなるまいが、はてさてどんな口上をしたものか、なんとも悩ましいかぎりなのだ。

―表象の森― 西丸四方の「彷徨記」

母が島崎藤村と姪・叔父にあり、「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデル藤村の父・島崎正樹が曾祖父にあたるという、精神科医西丸四方(1910-2002)の自伝的エッセイ「彷徨記-狂気を担って」は、平明で衒いのない語り口が、著者自身の人間性をよく表し、愉しく読ませてくれる。
とりわけ後半部、「都落ち」「心に残る病人たち」など、活写ぶりは際立ち、そのときどきの対象が鮮明に浮かび上がってくるのがいい。

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-以下は本書からのMEMO
「志向的作用は意識野の中心に分凝、セグレゲート(セ=分かれて、グレクス=群)されており、意識野の中心のまわりに、離れて、ひとりでに浮かぶ作用がよく分凝せずにあるのが正常で、統覚されていてもそれに関連した淡い表象がひょいひょいと出てくるものである。幻覚の場合には統覚が弱まり、まわりの淡い表象がはっきりしてきて、これがひとりでに、自動的に浮かび上がる表象ないし観念となる。すなわち意識の場で中心の統覚されたものの分凝が弱まり、周辺の淡かるべきものの分凝がはっきりきわ立ってくる。」 -再び東大で-の章より

「人間は時間的存在であるとともに空間的存在でもあるから、躁病の人の空間は拡大しており、うつ病の人の空間は縮小しているといえば、前者の跳躍、奔逸する症状は了解でき、後者の萎縮退嬰的した世界は了解できる。強迫を持つ人の世界は狭い円環で、その中をぐるぐる廻って前進がない。分裂病の人は非ユークリッド世界に住む。平行線に関係したことを持出せば我々と病人は通じ合えない。三角形を持出せば一応通じ合えるが、全く合うことはなく、方々でずれがある。我々の世界をユークリッド的として、ポアンカレ的に非ユークリッド世界を図示すると、我々の世界から見ると非ユークリッド的、分裂病的世界は小さく局限されている。実存分析者のいう世界の狭まりというときには、どうしても空間的に表象しなければならない。分裂病の人はユークリッド世界の中に非ユークリッド世界を作っている存在であるというと、アナロジーであるが、常識的人間たちの中にあって、人間として不可能であるような存在の仕方をする存在であるといえば、実存分析的に聞こえる。」 -都落ち-の章より

「ニルヴァナ-涅槃-、これは悟りの境地というよりも、生命の蝋燭の火がふっと消えたようなものであり、<ニルヴァナ>とは吹き消すことであるが、煩悩の火を吹き消して悟りの境地に達するというようなものでもなく、煩悩も悟りも何もない、荘子のいう無の無の無である。」 -死に損なって-の章より

「ビンスワーガーは、30年代になってから精神分析とハイデッガーの現存材は世界内存在だというのを精神病に応用した。私はこのやり方はユクスキュルの動物の環界内存在を人間に応用する方が容易でおもしろいと思っていた。」 -死に損なって-の章より

「精神医学の道を辿って50年あまり、迷い、つまずきながらやっと辿り着いたところは元のままであったという気がする。精神医学はイデオロギーの学問のように見え、ドイツイデオロギーとアメリカイデオロギー、クレペリンイデオロギーとマイヤー=フロイトイデオロギーの交代である。政治の方ならばマルクスイデオロギーと西欧イデオロギーの交代のようなものであろう。」 -死に損なって-の章より

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-250

9月16日、今朝も3時には床を離れてゐた。
月を眺め、土を眺め、そして人間-自分を眺める、人間の一生はむつかしいものだ、とつくづく思ふ。
夕方から其中庵へ出かける、樹明兄が冬村、二三雄その他村の青年と働いてゐられる、すまないと思ふ、ありがたいと思ふ、屋根も葺けたし、便所も出来たし、板敷、畳などの手入れも出来てゐる、明日からは私もやつて出来るだけ手伝はう、手伝はなければ罰があたる、今日まで、私自身はあまり立寄らない方が却つて好都合とのことで、遠慮してゐたが、まのあたり諸君の労作を見ては、もう私だとてぢつとしてはゐられない、私にも何か出来ないことはない。
今夜はよい月である、月はいろいろの事を考へさせる、月をひとりで眺めてゐると、いつとはなし物思ひにふけつてゐる、それはあまりにも常套的感傷だけれど、私のやうな日本人としては本当である、しんじつ月はまことなるかな。

※表題句の外、7句を記す

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Photo/北の旅-2000㎞から―摩周湖の水面-’11.07.27


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