2011年1月10日月曜日

こんやの宿も燕を泊めてゐる

Dc091226131

―四方のたより―

<日暦詩句>-1
在らぬたましひの在らぬこゑ
在ることの怖れはもはやない
在らぬことは怖れではない
在らぬことの怖れは在らない
すべての在ることの怖れは在らぬことへの予感であり
すべての在らぬことは在ることの怖れからの解脱である
   ―那珂太郎「鎮魂歌」より―

朝6時の目覚め、午後からは初稽古だが、年越しからかなりバタバタしてきて、なんだかやっと新年を迎えた気分。
昨日は夕刻より、新年早々からバレエの講習会参加のため神戸に戻つてきているという、ありさとありさパパと久しぶりのご対面。
一昨年の9月以来だから、その変貌ぶり、おとなの女になり初めていく少女は、すでに仄かな色香を周囲の空間へと放っていた。
仕事のため東京に残ったというゆりママの不在が、この少女の成長と変容の内実をよく物語っているともいえそうだ。
したがって、話の主筋は一成パパが担って進むから分かり易く見とおしも効く。
結論は一言だ、なにがなんでも、ワガノワへ行っちまうこと。

この日の午前、波除に、TKとその父とその弁護士との、三人の焼香を迎えた。
Ikuyoは、ひたすら儀礼的に、にこやかにさえして、彼らに応接し、見送った。
遅れてDaisukeも家族を伴ってやってきたが、これまたなんのわだかまりも見せずに終始した。
ひとり私だけが、少しばかり異空間に座している観があったのではなかったか。

一昨日-1/8-は、週明けにと思っていたのだが、作業を了えてしまえば早いに越したことはないとばかり、最終校正を持って大正の国際印刷へと出向いた。
表紙の紙質も決めた。200部で充分と思っていたが念のため300部に指示。印刷upの予定は23日の週かという。

―山頭火の一句― 行乞記再び -134
5月20日、曇、行程4里、正明市、かぎや

いやいや歩いて、いやいやホイトウ、仙崎町3時間、正明市2時間、飯、米、煙、そしてそれだけ。
此宿の主人は旧知だつた、彼は怜悧な世間師だつた、本職は研屋だけれど、何でもやれる男だ、江戸児だからアツサリしてゐる、おもしろいね。
同宿6人、みんなおもしろい、ああおもしろのうきよかな、蛙がゲロゲロ人間ウロウロ。

空即空、色是色、―道元禅師の御前ではほんたうに頭がさがる、―日本に於ける最も純な、貴族的日本人、その一人はたしかに永平古老仏。
ここで得ればかなたで失ふ、一が手に入れば二は無くなる、彼か彼女か、逢茶喫茶、ひもぢうなつたらお茶漬けでもあげませうか、それがほんたうだ、それでたくさんだ、一をただ一をつかめば一切成仏、即身即仏、非心非仏。

初めて逢うた樹明君、久しぶりに逢うた敬治君、友はよいかな、うれしいかな、ありがたいかな、もつたいないかな、昨日今日、こんなにノンキで生きてゐるのはみんな友情の賜物である、合掌。

※表題句の外、1句を記す。


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