2012年1月28日土曜日

朝から小鳥はとべどもなけども

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-表象の森- 河本真理「切断の時代-20世紀におけるコラージユの美学と歴史-」

「コラージュの空間において、破壊的な身振りによって立ち現れる、<切断><断片化><引き裂き><間>の問題は、とりわけ興味深い。
パウル・クレーは、生涯にわたって、いったん完成されたと思われた200以上の作品を、鋏やナイフで切り取った。クレーにとって、鋏は、絵筆と同じように、制作に必要な道具だったと言ってよいだろう。
クレーは、この元の作品の両側を大きく切り取り、そうして得られた断片を二つとも上下逆さまにし、中央にまさにぽっかり口を開けたような<間>を残して台紙に貼り付けた。
こうした一連の操作の結果、この前例のない新しいコラージュにおいて、抽象的な造形言語と色彩のコントラストがダイナミックに高められ、中央と周縁の位相が反転したのである。」

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「コラージユ」をkeywordに20世紀の美学と歴史を語り尽くさんとするかのような、本文545頁に達する野心的な本書を、暮れから訥々と読みすすめ、やっと読了-1/16-。
なんだか長い旅路の果てといった感懐を抱きつつ、最後の僅か7頁ほどのコンパクトにまとめられた結語を読むにいたって、本書の全貌がようやく明瞭な形をとりはじめた感がある。

「20世紀芸術におけるいくつかの枠組みを顕在化させ、さらには変容してきたコラージュの役割は、今日、その際後の限界とともに、その意義自体を失いつつあるように見える。コラージュがもたらした新たな意義は、単に用いられた技法にあるのではなく、構成要素の異質性とその開かれた性質にあった。このようなコラージュの開かれた性格が、絵画、彫刻、建築といった既成のジャンルの間の仕切りをずらし、まなざしを新たな空間性に直面させたのである。」

「芸術家がいったん完成した作品を切り取り-あるいは破り-、分割してできた断片を再構成するという、「破壊的-創造的」方法によって作られる「分析的コラージュ」をとりわけ詳細に分析したのは偶然ではない。というのは分析的コラージュに豊穣な可能性が秘められているにもかかわらず、それに関する従来の研究は、各々の芸術家の個別研究に限られていたからである。それゆえ、本書では、作品の「修正」を目的とするクレーの<分割コラージュ>、アルプのデッサン・デシレ、およびエルズワース・ケリーの<偶然による>コラージュの比較研究を試みた。具体的な作品分析を通して、連続性と不連続性、求心性と遠心性という二項対立の間を常に揺れ動く、分析的コラージュに特有な空間性が明らかになる。それは、中央と端の入れ替え、ずらし、<間>の挿入-クレー-、散種と接ぎ木-アルプ-、置換-ケリー-等の操作に顕著に見られる。このような分析的コラージュの空間は、形態・構造のレベルおよび意味のレベルにおけるずらしから生じる。この点において、<分析的コラージュ>の空間性は、キュビスムのコラージュの畳み込まれた空間とも、<意味論的コラージュ>の文学的・遠近法的空間とも、そして言うまでもなくアッサンブラージュの突出した三次元的空間とも異なっている。」

「またこうした分析を通して、一見して見えにくいものの、看過できない別の次元も浮かび上がってくる。それは、
分析的コラージュの<時間性>である。このタイプのコラージュは、時の流れの中で、いったん解体され、また再構成されるというプロセスを経ている。芸術作品に立ち現れるのは、その「内的な時間であり、こうして芸術作品が立ち現れる時が爆発することによって、時間の連続性が砕け散る」-アドルノ-。コラージュにおけるこうした<内的な時間>は、その物質的な脆さに内在的に結びついている。しかしながら、コラージュの<内的な時間>は、作品の避けがたい変質の過程を越えて、芸術家が本来破壊的である自然の時間を乗り越え、手なずけようとする試みをも意味する。本書では、こうした時間として、1.伝記的・歴史的な時間、2.有機的に展開する芸術創造の時間、3.<自己批判的>な反転する時間、4.最終作の前-準備-段階としての時間、という四つの時間の層を浮き彫りにした。このような時間性が複雑に絡み合う分析的コラージュの生成過程は、アルケオロジックな観者のまなざしによって復元され、追体験されうる。このようにしてコラージュは、<破壊的・創造的>なプロセスという、その起源を顕わにするのである。」

「こうした分析的コラージュの断片化に対して、アッサンブラージュの空間的な拡張、そしてさらには<綜合芸術作品>をめざすという逆の傾向も顕在化する。しかしながら、こうして次々に拡張する空間においてこそ、逆に限界の問題が一層決定的となって現れる。「断章」において、フリードリヒ・シュレーゲルは、<自己限定>をイロニーの最も必然的で、最高の営みだと定義している。「<自己限定>が最も必然的であるのは、我々が自己を限定しないときには常に世界が我々を限定し、我々を奴隷にしてしまうからである。最高であるのは、我々が自己創造と自己破壊の無限の力を我がものとしている点と面においてのみ、自己を限定することができるからである」。シュヴィッタースのメルツバウにおいては、枠を越えていこうとする過剰な欲望と、<自己限定>との間に弁証法的な関係が見られる-シュレーゲルならアイロニカルな関係と言っただろう-。メルツバウが拡張していくのは、シュヴィッタースが相続した<古い建築-アルトバウ->―自身の住居の壁で仕切られ、住まわれた空間―においてである。シュヴィッタースは、この空間を迷宮のような構造に変容し、絶えず新たな限界と枠を設定し続けた。こうしてメルツバウは、個人的―あるいは<アンチーム>―な言語を紡ぎ出す場となる。シュヴィッタースのコラージュによる造形は、準備習作やその他のあらゆる準備段階なしに行われるが、ケリー、そして時にピカソやマティスにおいては、コラージュは下絵や模型の役割を果たしていた。逆にシュヴィッタースの場合、メルツバウの創造において展開されたような、構築する身振り自体に含まれる<進行するデザイン-design in progress->とも呼べるものがある。メルツバウに取り込まれた廃物の断片を通して、外部の都市空間が畳み込まれ解体され、それと同時に、海底の貝殻の渦巻き模様や成長する珊瑚礁にも似た建築が生成する。メルツバウは、長い年月にわたってひそかに積み重ねられた過去と現在の多層構造を通して、すなわちこのコラージュに住まうという主観的な経験を通して、逆説的に集合的な経験の記憶をとどめるだろう―その破壊に至るまで。」

「内部と外部、主観とと集合的な経験との間の対立は、ラウシェンバーグには存在しない。アメリカの芸術家は、そのグローバルな作品のプロジェクトにおいて、あらゆる仕切りを打ち壊そうとしたのである。透明な仕切りとも言えるテレビの画面に映る、メディア化されたイメージに魅了されたラウシェンバーグは、地理的な空間を踏破することによってグローバル性に到達しようとする。こうして、や<四分の一マイルあるいは二ハロンの作品>において、首尾一貫性の追求は放棄され、あらゆることを言う欲望が勝っているように見える。それゆえ、ラウシェンバーグには、準備習作という形-ケリー、ピカソ、マティス-や、内的なデザインという形-シュヴィッタース-による、構造的な分節はもはや存在しない。ラウシェンバーグのグローバル化した作品は、シュヴィッタースのメルツバウに見られる空間的・時間的な多層構造とは無縁であり―グリーンバーグが想像だにしなかったであろう平面性によって―、時間と空間を平板化し、美術館のみが提供できる壁に沿って、現在を絶え間なく反復する。」

「今日、コラージュとアッサンブラージュが勝ち得た自由は、芸術の概念自体が不確かになるまで拡大した。この点において、シュレーゲルのいくつかの直観は正しかったように思われる。「断章」の著者にとって、<自己限定>の概念は本質的であり、そこでは<自己破壊>と<自己創造>が<アンチーム>に結びついていた。それは、ある程度自己の限界を受け入れたコラージュと、シュヴィッタースがメルツバウにおいて問い直した空間に立ち現れたのである。」

―山頭火の一句― 其中日記-昭和9年-263

2月11日
旗日も祝日もあつたものぢやない、身心の憂鬱やりどころなし、終日臥床、まるで生ける屍だ。
敬君やうやく帰宅、樹明君来庵、テル坊も-この呼称は樹明君にしたがふ-。
退一歩、そして進十歩、歩々新たなれ。

※表題句の外、5句を記す


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