2011年5月10日火曜日

いたゞきは立ち枯れの一樹

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―四方のたより― J.P.デュピュイの「プロジェクトの時間」

過去と未来の閉じた回路である時間―未来はわれわれの過去の行為から偶然に生み出されるが、その一方で、われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。

「大惨事は運命として未来に組み込まれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。‥‥たとえば、大災害のような突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずはなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること―それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生み出しているのだ。」

もしも―偶然に―ある出来事が起こると、そのことが不可避であったように見せる、それに先立つ出来事の連鎖が生み出される。物事の根底にひそむ必然性が、様相の偶然の戯れによって現われる、というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、おのれの運命を自由に選べるのだ。
環境危機に対しても、このようにアプローチすべきだと、デュピュイはいう。大惨事の起こる可能性を「現実的」に見積もるのではなく、厳密にヘーゲル的な意味で<大文字の運命>として受け容れるべきである―もしも大惨事が起こったら、実際に起こるより前にそのことは決まっていたのだと言えるように。このように<運命>と(「もし」を阻む)自由な行為とは密接に関係している。自由とは、もっと根源的な次元において、自らの<運命>を変える自由なのだ。
つまりこれがデュピュイの提唱する破局への対処法である。まずそれが運命であると、不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、その観点から(未来から見た)過去へ遡って、今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することだ。
  ―S.ジジェク「ポストモダンの共産主義」P247-248より

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-163
6月21日、同前。
昨夜来の風雨がやつと午後になつてやんだ、青葉が散らばり草は倒れ伏してゐる。
水はもう十分だが、この風では田植も出来ないと、お百姓さんは空を見上げて嘆息する。
私にはうれしい手紙が来た、それはまことに福音であつた、緑平老はいつも温情の持主である。
自分でも気味のわるいほど、あたまが澄んで冴えてきた、私もどうやら転換するらしい、―左から右へ、―酒から茶へ!
何故生きてるか、と問はれて、生きてるから生きてる、と答へることが出来るやうになつた、此問答の中に、私の人生観も社会観も宇宙観もすべてが籠つてゐるのだ。

※表題句の外、「花いばら、こゝの土とならうよ」を含む4句を記す

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Photo/川棚温泉から東へ1km程、閑静な山腹にある三恵寺の山門


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