2011年9月4日日曜日

雨ふるふるさとははだしであるく

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―四方のたより― 鳴り物入りの不発弾

台風12号は山陰沖に去ったというのに、なお近畿南部などには豪雨警報もあり、台風一過とはなかなかいかないらしい。
その台風襲来のなか、3、4日の両夜、木津川縁の一隅で催されているのが件の催し。

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音楽、ダンス/舞踏、パフォーマンス、映像、朗読等、
ミクストメディアのアーティストによるコラボレーション、即興表現の祭典-
その名も「PERSTECTIVE EMOTION WEST」と題されている。
出演のメンバーは全国各地から駆けつけているが、さすがに昨夜は台風の影響で、予定のメンバーが3名欠けたなかで行われた。

さりながらこのイベント、出演者たち関係者たちにとってある種の祝祭空間となりえたとしても、残念ながら、関係者以外の観者らにとっては、はっきりいって苦行以外のなにものでもない。
集まった多彩な顔ぶれも、それぞれにおいて技倆的落差もはげしいのだが、そんなことよりも、この祝祭を貫く方法論的仕掛自体に大いに問題がある、と言わざるをえない。

その仕掛とは、第1部「シャッフル1」Duo、第2部「シャッフル2」Trio、第3部「生まれくる集合による即興」といういたって単純なものだが、私はこれを私流の解釈で、たとえば第1部においては、聴覚系と視覚系のパフォーマーをそれぞれにDuo、すなわちDuo×Duoとして供されるものとばかり思っていたのだが、その予想はまったく外れ、なにもかもひとまとめに、そのなかから偶然のクジにまかせ、単なるDuoを行うものだったのだ。
したがって、聴覚系×視覚系ばかりでなく、聴覚系のみのDuoもあれば、視覚系だけのDuoも生まれるわけだが、この程度の組合せでは、即興表現を成立させる磁場として、あまりにポテンシャルが低いというものだ。なにしろ出演者は20名余りいるから、10組以上の沈滞せるシーンの羅列に延々と付き合わされるのだから堪らない。
第2部のTrioになってもポテンシャルにおいて大差はない。唯一観どころ聴きどころとなりえたのは、偶々ビオラの大竹徹も入った聴覚系のみのTrioとなった演奏、このシーンだけで、この時ばかりは演奏後の拍手も、さすがに客席は正直なもので、他と比べて一段と大きかった。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-237

9月3日、今朝も早かつた、四大不調は不思議に快くなつた、昨夜、樹明さんからよばれたタマゴが効いたのかも知れない、何しろ、薬とか滋養物とかいふものがききすぎるほどきく肉体の持主だから。
夕立がきた、夕立を観ず、といつたやうな態度だつた。
午後、周二さん来訪、予期しないでもなかつた、間もなく敬治君も来訪、予期したやうに、そして樹明兄は間違なく来訪。
汽車弁当で飲んだ、冬村君もやつてきて、小郡に於ける最初の三八九会みたいだつた。
よい雨、よい酒、よい話、すべてがよかつた、しかし一人去り二人去り三人去つて、私はまた独りぼつちになつた、かういふ場合には私だつてやはり寂しい、それをこらへて寝た、夢のよくなかつたのは当然である。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-238

9月4日、雨、よう降りますね、風がないのは結構ですね。
午前は、樹明さん、敬治さん、冬村さんと四人連れで、其中庵の土地と家屋とを検分する、みんな喜ぶ、みんなの心がそのまま私の心に融け入る。‥‥
午後はまた四人で飲む、そしてそれぞれの方向へ別れた。
夕方から夕立がひどかつた、よかつた、痛快だつた。
さみしい葬式が通つた。-略-
故郷へ一歩近づくことは、やがて死へ一歩近づくことであると思ふ。
――孤独、――入浴、――どしや降り、雷鳴、――そして発熱――倦怠。
私はあまりに貪つた、たとへば食べすぎた-川棚では一日五合の飯だつた-、飲みすぎた-先日の山口行はどうだ-、そして友情を浴びすぎてゐる。‥‥
かういふ安易な、英語でいふ easy-going な生き方は百年が一年にも値しない。
あの其中庵主として、ほんとうの、枯淡な生活に入りたい、枯淡の底からこんこんとして湧く真実を詠じたい。

※表題句の外、2句を記す

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Photo/北の旅-2000㎞から―苔の洞門、小さな石ころにも苔が覆っている-’11.07.25


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