2011年9月17日土曜日

鳴くかよこほろぎ私も眠れない

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―行き交う人々― 浜田スミ子篇

RYOUKOの命日も近い10日だった。
長年音信の途絶えていた人から供物が届けられた。中身はお線香。
届け主は浜田スミ子、もう25、6年は逢っていない。

添えられた書面には、
「逆縁」拝読しました。
本のタイトルに心がざわつきました。
その扉をそっと開けると、すっかり大人になった私の知らない僚子さんがいました。
その下に゛RYOUKOよ、おまえは悲母観音になるのだ」とありました。
僚子さんが亡くなったのだと想いました。
本の内容は心に重くのしかかり、父としての思いの深さが伝わってきました。
この訃報に接したとき、ご命日に何かお届けしようと考えていました。
‥‥、などと綴られていた。

浜田スミ子-
彼女が私の作品に初めて登場したのは、’77年秋の「太陽のない日-One day the Sun has gone.」だった。
稽古場に初めてやってきた頃の彼女は、軽い対人恐怖症のようなところがあるように見受けられた。そんな気質を少しでも積極的な性向になれるようにと、友人に勧められて門を叩いてきたらしかったが、芯の強さはあったのだろう、つねに控えめではあったが、真面目な姿勢で励み、徐々に頭角を現してくる。
メロス以後、’80年に入って、稽古場では即興的な表現が中心になっていくが、そんななかで彼女の資質は開花してくる。’80年、尼崎ピッコロシアターでの「アンネ・ラウ」で体現してみせた山中優子との対照は、この作品の中軸を成したし、’84年、島之内小劇場での「秋夜長女芝居女舞三噺篇-少女貝/道成寺絵解/水蜜桃」のなかで、Solo「天国の駅」は、その持ち味に適った佳品であった、と思う。
‘86年頃までのほぼ10年、それは私自身の破綻と再生を挟んだ10年であるが、彼女の20代前半から30代前半を、自身のもっとも華やいだ季節として、私とともに歩んでくれたことになる。

そんな彼女に、お礼の文を綴る-
些か驚きつつも、
お供えの品、ありがたく頂戴しました。
私の家には、仏壇や位牌はないのだけれど、
彼女の写真と、小さな小さな遺骨の入ったロケットが、
机の前の書棚にあります。
なるべく一輪挿しの花を絶やさぬように、
また、日々、お線香を薫らせてもいます。
過分なお志とともに、御文しみじみと拝読、感謝。
ありがとう。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-247

9月13日、起きたい時に起き、寝たい時に寝る、食べたくなれば食べ、飲みたくなれば飲む-在る時には―である-。-略-
めづらしい晴れ、ときどきしぐれ、好きな天候。
摘んできて雑草を活ける、今朝は露草、その瑠璃色は何ともいへない明朗である。
母屋の若夫婦は味噌を搗くのにいそがしい、川柳的情趣。
白船老から来信、それは私に三重のよろこびをもたらした、第一は書信そのもの、第二は後援会費、第三は掛軸のよろこびである。
蛇が蛙を呑んだ、悲痛な蛙の声、得意満面の蛇の姿、私はどうすることもできない、どうすることはないのだ!
廃人が廃屋に入る、―其中庵の手入れは日にまし捗りつつあると、樹明兄がいはれる、合掌。-略-
いやな夢ばかり見てゐる。‥
唖貝-煮ても煮えない貝-はさみしいかな。
根竹の切株を拾ふ、それはそのまま灰皿として役立つ。

※表題句の外、15句を記す

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Photo/北の旅-2000㎞から―釧路湿原展望台-’11.07.26


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