2010年6月1日火曜日

四ツ手網さむざむと引きあげてある

080209128

―表象の森― 桃中軒雲右衛門と宮崎滔天

幕末の浪人生活のあげくに、上州高崎で門付けのデロレン祭文の芸人となった吉川繁吉という人物がいた。
繁吉の次男幸蔵は、父の家業を継いで二代目吉川繁吉を襲名するが、まもなく新興の浪花節に転向して、桃中軒雲右衛門を名告るようになる。

師匠三河屋梅車の妻と駆落ちして関西へ逃避行をするなど、とかく不行跡の噂の絶えない雲右衛門だったが、明治35-1902-年に支那革命家の宮崎滔天と出会い、滔天のたっての頼みで、彼を一座の弟子に迎え入れる。
「窮民革命」を唱えて日本各地や大陸の満州を放浪していた滔天は、その思想宣伝の手段として浪花節を選んだものらしい。あえて無頼の悪評高い雲右衛門を選んだ理由は、赤穂義士伝を十八番としたその芸風にあったのだろう。仇討ちの大義に艱難辛苦する雲右衛門の語る赤穂浪人は、まさに明治20年代以後の-民権運動に挫折した-鬱勃たる壮士の姿であり、滔天にとって容易に彼自身が重ね合わされるものだったのではないか。

雲右衛門は、明治36-1903-年、滔天の勧めで九州に下り、以後4年近く、博多を中心に活動する。雲右衛門はおもに赤穂義士伝、弟子の滔天こと桃中軒牛右衛門は、支那革命軍談-革命に揺れ動く支那の現状を実録風に-を語るなどして、二人は九州で大成功をおさめた。
その余勢を駆って雲右衛門は、明治40-1907-年6月に上京、東京本郷座を1ヶ月間にわたって大入満員にすることになる。赤穂義士伝-忠臣蔵-は雲右衛門の名声とともにまたたくまに日本近代の国民叙事詩となり、いっぽうの宮崎滔天は、明治38-1905-年に中国革命同盟会の結成に参加しつつ、孫文や黄興あるいは滔天自身などの支那版義士伝を浪花節にのせて語り歩き、革命資金の調達に奔走していた。まさに語り芸の伝統を地で生きたような人物である。

門付け芸人となった浪人の子、雲右衛門が、大陸浪人の宮崎滔天と結びついたことには、やはり語り芸の系譜の因縁めいたものを思わせる。
それにしても、雲右衛門と滔天が同じ総髪姿で高座に上ったというのは、たんに奇を衒ったという以上の意味があると思われる。総髪に紋付袴という雲右衛門のトレードマークともなった出で立ちは、芝居や講談でお馴染みの彼の浪人軍学者由井正雪のそれである。また雲右衛門が好んで用いたその過剰な舞台装飾、演壇中央に極彩色の前幕と後ろ幕がかけられ、舞台両袖には色とりどりの旗や幟などが立て並べられたという。これら過剰な仕掛けは、日本社会の底辺に伏流したある精神の系譜を確実に指し示している。社会の良俗から故意に逸脱していく芸人雲右衛門と革命家滔天は、まさにその過剰・バサラな演出によって<革命>や<解放>のアジテーターとしての位相を獲得するのである。

雲右衛門の浪花節は、その出し物や語り口-節調-も含め、すべての意味において日本の語り芸の行き着いたカタチであった。たとえば雲右衛門の総髪姿に、語り芸におけるある種の先祖返りが覗えるとしたら、雲右衛門や滔天に受け継がれた語りのエネルギーとは、じつは楠木正成や由井正雪をカタルあぶれ者、<ごろつき>たちのエネルギーである。
宮崎滔天の<アジア主義>の理想が、その後継者たちによって、<大東亜共栄><五族協和>の幻想にすりかえられていったことが周知のように、日本社会のネガティブな部分が、歴史的にみてもっともラディカルな<日本>的モラルの担い手であったという構造がある。彼らのアジテートするもうひとつの天皇の物語が、ある種の<解放>のメタファーとして機能したこと、その延長上には、日本近代の<国民>国家のイメージさえ先取りされていたのである。
   -兵藤裕己「太平記<よみ>の可能性」より抜粋

―山頭火の一句― 行乞記再び -73-
3月11日、晴、小城町行乞、宿は同前

ずゐぶん辛抱強く行乞した、飴豆を買つて食べる、焼芋を貰つて食べる、餅を貰つて食べる、そして酒は。…
三日月といふ地名はおもしろい。

此宿はよい、木賃25銭では勿体ない。
同宿5人、みんなお遍路さんだ、彼等には話題がない、宿のよしあし、貰いの多少ばかりを朝から晩まで、くりかへしくりかへし話しつづけてゐる。

※句作なし、表題句は2月28日記載の句

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Photo/町の中心部にある小城公園、現小城市小城町

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Photo/小城町岩藏、江里山の棚田-A

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Photo/小城町岩藏、江里山の棚田-B


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