2010年6月25日金曜日

よろこびの旗をふる背なの児もふる

Santouka081130044

―日々余話― iPadの青空文庫
iPadで読む青空文庫、そのアプリ「i文庫HD」600円也をdownloadしてみる。成程これはスグレモノだと思う。
すでに著作権が消滅した明治から昭和初期の文芸作品が大部分を占めるが、現在、収録作品は9000に余るという。そのすべてをダウロードしたとしても130MBほどにすぎないというから、動画などに比べればわずかなものだ。
それらを現に本のページをめくるように読めるこのすぐれたデザイン環境で享受できるとなれば、話題にもなろうというものだ。
早速、山頭火の著作をすべてdownloadしてみた。

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「砕けた瓦」-或る男の手帳から-

 私は此頃自ら省みて「私は砕けた瓦だ」としみじみ感ぜざるをえないようになった。私は瓦であった、脆い瓦であつた、自分から転げ落ちて砕けてしまう河原であったのだ。
 玉砕ということがあるが、私は瓦砕だ。それも他から砕かれたのではなくて、自から砕いてしまったのだ。見よ、砕けて散った破片が白日に曝されてべそを掻いている。
 既に砕けた瓦は粉々に砕かれなければならない。木端微塵砕け尽されなければならない。砕けた瓦が更に堅い瓦となるためには、一切の色彩を剥がれ、有らゆる外殻を破って、以前の粘土に帰らなければならない。そして他の新しい粘土が加えられなければならない。

 家庭は牢獄だ、とは思わないが、家庭は沙漠である、と思わざるをえない。
 親は子の心を理解しない、子は親の心を理解しない。夫は妻を、妻は夫を理解しない。兄は弟を、弟は兄を、そして姉は妹を、妹は姉を理解しない。―理解していない親と子と夫と妻と兄弟と姉妹とが、同じ釜の飯を食い、同じ屋根の下に睡っているのだ。
 彼等は理解しようと努めずして、理解することを恐れている。理解は多くの場合に於て、融合を生まずして離反を生むからだ。反き離れんとする心を骨肉によって結んだ集団! そこには邪推と不安と寂寥とがあるばかりだ。

Evreryman sings his own song and follows lonely path.-お前はお前の歌をうとうてお前の道を歩め、私は私の歌をうとうて私の道を歩むばかりだ。驢馬は驢馬の足を曳きずって、驢馬の鳴声を鳴くより外はない。
私達は別れなければならなくなったことを悲しむ前に、理解なくして結んでいるよりも、理解して離れることの幸福を考えなければならない。

 男には涙なき悲哀がある、女には悲哀なき涙がある。
 自殺は一の悲しき遊技である。
 溢れて成った物は尊い、絞って作った物は愛せざるをえない、偽って拵えた物は捨ててしまえ。
 人生はミラクル-奇蹟-ではない、ローカス-軌跡-である。
 真実は慈悲深くあり同時に残忍である。神に真実があるように悪魔にも亦真実がある。
 苦痛は人生を具象化する。

 酔わないうちに胃が酒で一杯になった、ということは悲しい事実である。

-荻原井泉水主宰の「層雲」-大正3年9月号-に所収された山頭火の短編寄稿文の抜粋である。
山頭火年譜によれば、大正3年といえば数えの33歳、若旦那として家業の種田酒造場の経営に携わりつつ、前年の初めより井泉水に師事して「層雲」に投句しはじめ、俳号に山頭火を用いるようになっていた。また彼の住んでいた防府で俳句・短歌の同人椋鳥会を主宰もしていた。


―山頭火の一句―
行乞記再び -86
3月27日、曇、終日臥床。

とうとう寝ついてしまつたのだ、実は一昨夜つい飲んだ焼酎が悪かつたらしい、そして昨日は食べた豆腐があたつたらしい、夜中腹痛で苦しみつづけた、今日は反省と精進とを齋らす。

旅で一人で病むのは罰と思ふ外ない。
病めば必ず死を考える、かういふ風にしてかういふ所で死んでは困ると思ふ、自他共に迷惑するばかりだから。
死! 冷たいものがスーツと身体を貫いた、寂しいやうな、恐ろしいやうな、何ともいへない冷たいものだ。

今日はさすがの私も飲まなかつた-飲んだのはアルコールでなくて水ばかりだつた-、飲みたくもなく、また飲めもしなかつた。早く嬉野温泉に落ちつきたい、そして最少限度の要求に於て、最少範囲の情実に於て余生を送りたい

※表題句のみ記載、旗行列と註記あり

06240
Photo/佐世保駅のすぐ近くに聳え立つカトリック三浦町教会
三浦町教会の前身は現市役所に近い谷郷町に明治30-1897-年に建てられた。その後、昭和6-1931-年には現在地へと建替えられることになり、同年10月竣工したというから、この真新しい荘厳たる偉容に接して山頭火はなにを思ったか‥。


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