2010年12月1日水曜日

ぬかるみをふんできてふるさとのうた

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―表象の森― 江戸の御触書

江戸期の三大都市、京都・大坂・江戸の自治と行政のしくみを支えた「御触書-町触制度」について詳しく説いてくれた講談社版の「日本の歴史16-天下泰平」。

秀吉時代の京都でその端緒をひらき、徳川期に入って京都所司代のもと確立していく。家光の寛永年間-1640年代頃-には江戸・大坂にも採り入れられ本格化していった、と。

「触れ」は、町方支配の町奉行所から、京都では<町代>へ、江戸では<町名主>、大坂では<惣年寄>へと示達され、それぞれの町組から各町々へと流され、一両日も経ずに各町の隅々までいきわたるのだが、さしづめ京都でいえば千町を越える町々、約4万軒の町民たちに触れ回ったということになる。

本書では、その量的な変遷ぶりも示してくれているが、これがまた一驚、眼を瞠らされる。例を京都にとると、所司代から町方支配を分離して京都町奉行所が成立した1660年代-万治年間-から急速に増加しはじめ、1700年前後の元禄期には年間50件ほどに、享保期-1720年代-には年100件ほど、18世紀後半の宝暦~寛政期には180~190件ほどにも達している。つまりはこの時期、二日に一度は「触れ」が出され、町方を駆けめぐっていたというわけである。

こういった事情をみれば、町中における寺子屋の普及も察せられようし、幕末期におけるこの国の庶民の識字率が、近代ヨーロッパをもしのぐ高率にあったという事実も肯けようものである。

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―山頭火の一句― 行乞記再び -118
4月28日、雨、休養、終日読書、宿は同前、なかなかよい、もつと掃除が行届くといいのだが。

悠然として春雨を眺めてゐられる、それも緑平老のおかげだ、夜はあんまり徒然だから活動見物、日活映画のあまいものだつたが、十銭はとにかく安い。

同宿数人、その中の二人は骨董仲買人、気色が変つてゐて多少の興味をひいた。
ちょんびり焼酎を飲んだら腹工合があやしくなつた、もう焼酎には懲りた、焼酎との絶縁が私の生活改善の第一歩だ。

※表題句の外、4句を記す

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Photo/炭鉱の町田川市、昭和前期の風景

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Photo/石炭資料館に残る採掘櫓

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Photo/彦山川の川渡り神幸祭風景


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