2010年12月17日金曜日

ふるさとの夢から覚めてふるさとの雨

Dc091226183

―日々余話― Soulful Days-44- 事の本質とは
この稿は、今年3月に書きかけていたのを補綴し言挙げするものである。

交通法規以前の、法以前の、事の本質というものを考える
たとえば、小沢一郎問題、
仮にこのまま政治資金規正法等からは罪に問われず落着したとしても、これはやはり、悪徳きわまるものと受けとめざるをえない。それが事の本質だ。
新生党や新進党あるいは自由党と、立党解党を繰り返したはてに、政党交付金の余剰を5億あるいは6億と懐にしたと巷間伝えられる。立証は出来ないがさりとて逆の証明もできない、疑いなく事実であろう、と世間はみなそう考えている。政党交付金という国民の血税をも含めたカネが原資となって、10億の不動産へと化け、陸山会に帰属せしめているという事実、しかも政治資金管理団体は不動産を登記できないから、小沢一郎名義の登記物件だ。
これらを決して私しない、と検察特捜部に一筆取られたというから、政治資金管理団体陸山会への帰属は動かせなくなるだろうが、小沢はそんなこと端から百も承知、私することなど要せず、どこまでも陸山会所有のままでよい、これら不動産が政治団体帰属であるなら、小沢一郎個人の登記物件であろうとも、個人財産として相続税の対象にはならない、政治団体はただ継承されるものなのだから、仮に小沢の親族が後継となれば、不動産もろともそっくりそのまま引き継がれることになる。
法にはかからぬが、こんな全容を知れば、いやおおかたの国民はすでにそんなものかと推量していようから、多くの人がこんな悪はないと思っているだろう。

さて、RYOUKOを死に至らしめた事故の、事の本質とは‥
現場は中央大通りという阪神高速の高架も走る広い道路、速度制限は60km/h、その辰巳橋南詰交差点内、
RYOUKOを乗せたタクシー-M車-が最徐行しながら、右折から直進行為に入った時、直進の対抗車-T車-が後部左側に激突した。衝突時、直進車の速度は時速70km/hだったと推定され
ている、制動操作はまったく間に合わなかったのか否か‥。
交通法規においては、直進車優先の原則があるが、午後8時15分頃という事故発生時において、この直進車が無灯火であったり脇見運転であったりすれば、どういうことになるか。
そういった法以前の、事実関係のみでいえば、最徐行で右折から直進へと移行しつつあったM車に、その横合いからTが急ブレーキも間に合わないままぶつかってきたもので、このとき、正確には衝突の1.0秒前から1.5秒前、T車は次の瞬間に起こる出来事を予知できている訳である。一方、MがぶつかりくるT車にどの時点で気づきうるかと考えると、T車が前照灯を灯火していれば、横合いからとはいえ迫り来るその灯りを2秒前にも気づくことはありうるが、仮に無灯火であった場合にはぶつかってくる瞬間まで気づきえないことになる。ましてや乗客であったRYOUKOにとってはまったく無防備なままに激突の衝撃をまるごと受けることになる。
もはや避けえない衝突を、ほんの一瞬とはいえ直前に予知できたT車の運転手は、次の瞬間に起こる衝撃に対し咄嗟に身構えることも出来るが、M車の運転手とその乗客RYOUKOにとっては、そのわずかな抵抗すら、咄嗟に怯むことさえ不可能である。
この違い、この差は、決定的に大きなものではないだろうか、と私は思う。

この事故を考えるとき、私は過去の私自身の経験のなかでの二つの出来事を思い出さずにはいられない。
ひとつは、まだ幼い頃の遠い昔のこと、私が小2の時であった。朝、学校へ登校してまもない始業前の時間、たくさんの児童が運動場で遊んでおり、何をしていたか記憶にないが、私も校庭に居た。そこへ突然、背後から強い衝撃に襲われ転倒、固い地面に頭部を打ってそのまま気絶してしまったのである。
当時、上級生の男子ならほとんどだれもが遊んでいた、軍艦ごっことか水雷・艦長と呼ばれた遊び、これに興じて走り回っていた6年生の男子が、なにかほかに気を取られていたからだろうが、私にぶつかってきたというのが事の経緯だった。
気を失ったまま眠り込んでしまっていた私が、気がついたのは1時間後だったかそれとも2時間後だったか、気がついたとき真っ先に眼に映ったのは、私の顔を心配そうに覗き込んでいる次兄-当時6年生だった-の姿だった。

もう一つは、私が40歳を過ぎたばかりの頃、居眠り運転で自身が乗っていた車を大破させてしまった事故のことだ。当時の私は自宅で小さな学習塾をしていたのだが、収入も心許ないことから深夜のアルバイトを始めてまだまもない頃で、たしか2週間目くらいだったと記憶する。私が運転していたのは積載1屯の保冷車、時間は午前0時を30分もまわっていたろうか、梅田の北側のコンビニに配達をして次の店に向う途中、高速の高架下を走っていたのだが、睡魔に襲われフッとなっては眼を凝らすといったことが二、三度繰り返されただろうか、ハッと気がついたとき暗い前方に停車している大きな車-ダンプ車だったか工事用の大型車両だったか-が眼に入った、大慌てで急ブレーキをかけたがもう間に合わない、ガシャーンと金属音をたてて衝突、運転していた保冷車は大型車の後部へめり込むようにへしゃげて止まった。ほんの数秒気を失っていたと思うが、ペシャンコになった運転席で気がついた私は、容易に身動きはならないのだが、身体にはほとんど異状がない、車前部大破で保冷車はそのまま廃車となった損傷の大きさに比して、軽い打ち身や擦り傷はあったものの五体満足、ほんの一瞬の差で大怪我ともならず命拾いをしたのだった。

この二つの事例からみても、能動的に自らぶつかりゆく者と受け身的にぶつけられる者、その違いが事故の衝撃によって受ける損傷において、被害の度合を大きく分け隔てることにもなるのは明白だろう。
ぶつかり来たった者=Tは、その一瞬先に起こる衝撃に対し、身を挺しつつぶつかりゆくのであり、ならばこそその衝撃に比し軽傷で済む場合は多々あり得るが、ぶつけられた者=RYOUKOは、まったく不意を突かれることであってみれば、その激しい衝撃を100%そのまま身に蒙らざるを得ないのだ。

それが、この事故の、法以前における、事の本質なのだ、と私は思う。
RYOUKOを帰らぬ人としてしまった直接の原因は、脳外傷による急性の硬膜下出血であり脳浮腫であったが、治療にあたった医師の説明によれば、他に、肝臓部に外傷、脾臓にも傷痕、ともに変色がみられ、左胸部肋骨の上部に骨折、骨盤の仙骨部左右が骨折、右脚部膝下部位に骨折、と身体の各所に異状や損傷が見られたという、その衝撃の凄さと悲惨さを物語るものであった。

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

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―山頭火の一句― 行乞記再び -128
5月8日、雨、しようことなしの滞在、宿は同前。

終日読書静観、ゲルトがないと坊主らしくなる。
同宿4人、みんな世間師だ、世間師はそれぞれ世間師らしい哲学を持つてゐる、話してもなかなかおもしろい、世間師同士の話は一層おもしろい-昨日今日当地方の春祭だから、それをあてこんで来たものらしい-。

痔がいたむ、酒をつつしみませう。
この宿のおかみさんはとても醜婦だ、それだけ好感が持てた、愛嬌はないが綺麗好きだから嬉しい。
世間する、といふ言葉は意味ふかい、哲学するといふ意味のやうに。

※表題句の外、2句を記す

12171
Photo/厳島の合戦で毛利元就に敗れた陶晴賢の居城だった周防若山城跡、二の丸から市街地を望む

12172
Photo/陶の道とよばれた嘗ての武者道は、徳山の陶氏居館跡とをつなぐ


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