2010年12月24日金曜日

葉桜となつて水に影ある

Dc091226101

-表象の森- 親鸞の悪人と凡夫
今村仁司「親鸞と学的精神」より

<悪人―存在>
親鸞の「悪」は存在論的概念
「屠はよろづのいきたるものをころしほふるものなり、これはれうし-猟師-といふものなり。沽はよろづのものをうりかうものなり、これはあき人-商人-なり。かやうのものどもは、みないし-石-・かわら-瓦-・つぶて-礫-のごとくなるわれらなり」
親鸞のいう「われら」とは現世-五濁悪世-において煩悩に縛られ、すべての煩悩をかかえたままに生きる「例外なくすべての人間たち」である。
現世のなかにいるかぎり「汚染され濁った人間」つまりは「悪であるほかはない人間」であり、「悪人」の対概念は「善人」ではなく「浄人」あるいは「覚者-覚醒した人」である。
人間はおしなべて例外なく「悪-人」である、人間であることは悪人である宿命を免れることはできないのだ。
問題は自分が世俗的本質、世俗的人間としての本質を自覚するかどうかであり、社会的規定が何であれ自分が世俗的人間であるかぎり、全面的に悪人であると自覚する者だけが、自我に執着して自己の力量を自慢し誇示することの絶対的不可能を認識し、自力救済の不可能の確信から他力への信頼を腑に落ちるようにして自覚できる。
救済とはこの我執的存在をはっきりと知るに至りながら、我執を自分で取り去ることができないという根源的な事態に直面する人、これが悪人であり、その人だけが厳密な意味で救済の対象になる。
この臓腑的知こそ親鸞が力説する「信」である。

人間なるもの-凡夫
凡夫とは「煩悩具足」の存在であり、煩悩とは玄奘の訳語で云えば「計所執性」
遍計所執性とは
1. 遍く計らうことであり、これには、①-自己を計らうことと、②-自分以外の周り-対象を-計らうこととがある。
2. はからうことに執する-はからう自我に執する
3. はかられたものに執する-はかられたものに執する-はかられた対象に執する。
4. 執することに執する
「我はからう」-根源的な「生きる欲望」-「力への意志」

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

Dancecafe20101224web07

―山頭火の一句― 行乞記再び -131
5月11日、12日、13日、14日、15日

酒、酒、酒、酒、酒、‥遊びすぎた、安易になりすぎた、友情に甘えすぎた、伊東君の生活を紊したのが、殊に奥さんを悲しませたのは悪かつた、無論、私自身の生活気分はメチャクチャとなつた。‥‥
いよいよ15日の夕方、大田から1里ばかりの山村、絵堂まで送られて歩いた-このあたりは維新役の戦跡が多い、鍾乳洞も多い-。
秋吉台の蕨狩は死ぬるまで忘れまい。
しつかりしろ、と私は私自身に叫ぶ外なかつた、、ああ。

――赤郷絵堂、三島屋

※表題句の外、16句を記す

12231
Photo/高杉晋作の奇兵隊ゆかりの大田・絵堂の戦の本陣跡

12232
Photo/現・美祢市美東町の赤郷八幡宮

12233
Photo/秋吉台の原生林、長者ケ森


人気ブログランキングへ

0 件のコメント:

コメントを投稿