
―表象の森― 詩とはなにか
金子光晴は「腹の立つときでないと詩を書かない」といい、
北川冬彦は「なぜ詩を書くか、私にとっては、現実の与えるショックが私に詩を書かせるのだ、というより外はない」、
高橋新吉は「自然の排泄に任すのである」と。
また、村野四郎は「私は詩の世界にただ魅力を感じるから詩を書きます」といい、
深尾須磨子は゛私が存在するゆえに私は詩を書く」、
田中冬二は「私はつくりたいから、つくるまでであると答えたい」という。
そして、山之口貘自身は、
「詩を象にたとえて見るならば、詩人は群盲なのかも知れない」と呟く。

<日暦詩句>-31
「座蒲団」 山之口貘
土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽といふ
楽の上にはなんにもないのであらうか
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に坐つたさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに
住み馴れぬ世界がさびしいよ
-「山之口貘詩文集」講談社学芸文庫より
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-173
7月1日、木下旅館。
雨、終日読書、自省と克己と十分であつた、そして自己清算の第一日-毎日がさうだらう-。
伊東君に手紙を書く、愚痴をならべたのである、君の温情は私の一切を容れてくれる。
私は長いこと、死生の境をさまようてゐる、時としてアキラメに落ちつかうとし-それはステバチでないと同時にサトリではない-、時として、エゴイズムの殻から脱しようとする、しかも所詮、私は私を彫りつゝあるに過ぎないのだ。‥‥
例の如く不眠がつづく、そして悪夢の続映だ! あまりにまざまざと私は私の醜悪を見せつけられてゐる、私は私を罵つたり憐れんだり励ましたりする。
彼―彼は彼女の子であつて私の子ではない-から、うれしくもさみしい返事がきた、子でなくて子である子、父であつて父でない父、あゝ。
俳句といふものは-それがほんとうの俳句であるかぎり-魂の詩だ、こゝろのあらはれを外にして俳句の本質はない、月が照り花が咲く、虫が鳴き水が流れる、そして見るところ花にあらざるはなく、思ふところ月にあらざるはなし、この境涯が俳句の母胎だ。
時代を超越したところに、いひかへれば歴史的過程にあつて、しかも歴史的制約を遊離したところに、芸術-宗教も科学も-の本質的存在がある、これは現在の私の信念だ。
ロマンチツク-レアリスチツク-クラシツク-そして、何か、何か、何か、-そこが彼だ。
※表題句の外、6句を記す

Photo/豊浦町の福徳稲成神社-’11.04.30

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