2011年8月4日木曜日

お墓の、いくとせぶりの草をぬく

Santouka081130087

―表象の森― 光晴と貘、承前

1943年ごろ、二人でよく戦争のさなかの東京の町を歩き、二人にしか通じない、そして他の人たちに喋ると危険なことを、まったき信頼のうちに語り合った。それは文壇、詩壇、政治、戦争などを思いきりこきおろし、その後が爽快な気分となるものであった。。
1944年8月、貘・静江夫妻と数ヶ月前に生まれた長女の泉という一家族が、吉祥寺の金子家に同居した。すでに戦局は暗澹とし、空襲の多い東京から地方へ疎開する人たちが多かった。貘の一家は二ヶ月ほど同居したのち、12月には静江の故郷である茨城県結城郡石下に疎開した。金子一家も12月に、山梨県南都留郡中野村平野に疎開した。
戦後の1952年12月、光晴は詩集「人間の悲劇」を出したが、そのなかに「山之口貘君に」という献呈の辞を添えた短い詩を入れた。二人は喫茶店でよくコーヒーを飲みながら雑談したが、その多くの思い出をある一つの情景の幸福感のなかに集中させようとしたような作品である。 
 -「マロニエの花が言った-下巻-」P178-228「恋情と友情」章より

<日暦詩句>-39

  「山之口貘君に」  金子光晴詩集「人間の悲劇」より

二人がのんだコーヒ茶碗が
小さな卓のうへにのせきれない。
友と、僕とは
その卓にむかひあふ。

友も、僕も、しゃべらない
人生について、詩について、
もうさんざん話したあとだ。
しゃべることのつきせぬたのしさ。

夕だらうと夜更けだらうと
僕らは、一向かまはない。
友は壁の絵ビラをながめ
僕は旅のおもひにふける。

人が幸福とよべる時間は
こんなかんばしい空虚のことだ。
コーヒが肌から、シャツに
黄ろくしみでるといふ友は

「もう一杯づつ
熱いのをください」と
こっちをみてゐる娘さんに
二本の指を立ててみせた。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-207

8月4日、曇、どうやら風雨もおさまつたので、朝早く一杯いただいて出立、露の路を急いで展墓-有富家、そして種田家-、石古祖墓地では私でも感慨無量の体だつた、何もかもなくなつたが、まだ墓石だけは残つてゐたのだ。
青い葉、黄色い花をそなへて読経、おぼえず涙を落した、何年ぶりの涙だつたらうか!
それから天満宮へ参拝する、ちょうど御誕辰祭だつた、天候険悪で人出がない、宮市はその名の示すやうにお天神様によつて存在してゐるのである、みんなこぼしてゐた。
酒垂公園へ登つて瀧のちろちろ水を飲む、30年ぶりの味はひだつた-おかげで被布を大枝にひつかけて裂いたが-。
故郷をよく知るものは故郷を離れた人ではあるまいか。
東呂君を訪ねあてる、旧友親友ほどうれしいものはない、カフエーで昼飯代りにビールをあほつた、夜は夜でおしろいくさい酒をしたたか頂戴した、積る話が話しても話しても話しきれない。
三田君にちよつと面接、ゆつくり話しあふことが出来なかつたのは残念だつた、またの機会を待たう。

※表題句の外、13句を記す

080401
Photo/防府天満宮の社殿

080402
Photo/北の旅-2000㎞から―大沼湖-’11.07.24


人気ブログランキングへ

0 件のコメント:

コメントを投稿