2011年8月25日木曜日

一人となればつくつくぼうし

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―表象の森― 感覚と脳と心と

人間の知覚システムの研究が進むに従って、知覚と実在の関係そのものが変わってきた。色や味や音や匂いは、人間の脳が処理して初めて「存在」するからだ。物質の塊があってそこから揮発する分子があったからといって、「匂いが存在する」とはいえないし、空気や地面が震動するからといって「音が存在する」とももういえない。匂いも音も、色も味も、知覚する人間の存在と無関係に存在するという考え方は、たとえ自然に思えても実は正しくない。たとえばバラの花を見る人間は、素朴には、バラによい香りがついていて、美しい色がついていると思うが、実はバラの香りも色も、人間の知覚器官と脳の働きを離れて外界に「実在」するものではない。それは、たとえ人がバラの棘に指を指されれば「痛い」と感じるとしても、「痛み」がバラの棘の中に内在しているわけではないのと同じことである。また、匂いや音や痛みを認識したとしても、それをどのように受け止めるかという主観的内容までは説明できない。

見神者による神の存在の知覚と認識についても同じだ。人によって「何かが存在する」ことは、物理的刺激を人間の感覚受容細胞が生体の電気信号に変換したものを通じてキャッチされるわけであるが、たとえそのように「神」をキャッチしても、そのクオリア-実感-の量的質的な計測は不可能である。実際、脳科学が発達したといっても、たとえば「心」がどのようなものかは、科学の言葉によって表現できていない。脳の活動は心の生成の「必要条件」ではあるが、「十分条件」であるかどうかについては、証拠もなければ理論もない。

世界を分節して法則を発見し単純化しようとした科学は、発展するに従って、世界が決して単純なハーモニーやシンプルな秩序で構成されているわけではないことを明らかにした。科学の対象は、全体から分けられて切り出されるものではなく、常にさまざまな要素が複合的に作用しあう「複雑系」の世界にあるのだ。それでも、この世界を解明していくには、科学研究の鉄則として、正しいタイミングで正しい問題に取り組み、その問題を正しいレベルに設定して問うということが要求される。

  -竹下節子「無神論」-P255-「素朴実在主義と神の存在の問い」より


―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-228

8月25日、朝の散歩、そして朝の対酌、いいですね!
彼は帰る、私に小遣までくれて帰る、逢へば別れるのだ、逢うてうれしや別れのつらさだ、早く、一刻も早く、奥さんのふところに、子供の手にかへれ。-略-
残暑といふものを知つた、いや味つた。
「アキアツクケツアンノカネヲマツ」
 -秋暑く結庵の金を待つ- 緑平老へ電報
夕方、S氏を訪ねる、これで三回も足を運んだのである、そして土地の借入の保証を懇願したのである、そしてまた拒絶を戴いたのである、彼は世間慣れがしてゐるだけに、言葉も態度も堂に入つてゐる、かういふ人と対座対談してゐると、いかに私といふ人間が、世間人として練れてゐないかがよく解る、無理矢理に押しつけるわけに行かないから、失望と反抗とを持つて戻つた。
夜、Kさんに前後左右の事情を話して、此場合何か便法はあるまいかと相談したけれど乗つてくれない-彼も亦、一種の変屈人である-。
茶碗酒を二三杯ひつかけて寝た。

※表題句の外、1句を記す

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Photo/北の旅-2000㎞から―層雲峡・銀河の滝-’11.07.28


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